人生どうでも飯田橋

日々感じたことを綴ります

新卒で入った会社を辞めるまでの話

耳の奥で電話が鳴っていた。

それが夢なのか、現実なのか区別がつかない。

やがて意識がはっきりしてくると、自室の白い天井が目に入った。

瞬間、今日の業務のことを考えて憂鬱になる。

 

私が配属されたのは"輸出混載課"。

各営業所の営業が取ってきた貨物をこの部署で一つのシップメントとして仕立て上げ、混載差益を得ることが課せられた役割であった。

とにかく電話が多い。

平均すると30秒に1回はかかってくる。

課員6名が全員電話中のため、鳴りっぱなしになっていることもザラにあった。

あまりに電話が鬱陶しいので、入社数ヶ月後の面談のときに「電話がうざいのでバイトを入れてほしい」と言ったら、別室に呼び出されてブチギレられた。

意味がわからない。

電話が多すぎで自分の仕事ができないから意見を書いたのに、なぜブチ切れられなければならないのか。

この時から私は会社で自分の意見を言うのを辞めた。

 

私には同期が二人いた。

男と女ひとりずつである。

二人ともキチガイ激務部署の輸入通関課へ配属され、男のほうは深夜2時まで残業など当たり前だと言っていた。

私は希望していた部署への配属だったし、人間関係は悪くなかったので2人に比べればまだマシであった。

 

上司課長以下はとてもいい人たちだったが、部長(以下クソジジイ)がクズであった。

親会社出身ではなくプロパーであそこまでのし上がったのは賞賛に値するが、性格が終わっていた。

自分のことを神かなにかと勘違いしている人間であった。

基本的に女性社員を必要以上にチヤホヤし、男性社員をゴミのように扱うのである。

しかし女性をチヤホヤするだけで仕事量が減るわけではないから、女性から支持されているわけではない。

 

私が入社して2年が経とうとしていた頃、一つ上の先輩が別の支社へ異動を命じられた。

当然、補充が入るものだと思っていた。

しかし、入らなかった。

私は仕事量が2倍になった。始発で出社して終電で帰る日が続いた。

私の怒りは総務へ向いた。いつも暇そうにして完全週休2日謳歌している部署。説明会で「将来的にはすべての業務を経験してもらいます」と謳っていたが、総務の連中は私の部署へ異動するのか? 絶対しないだろ。何の利益も生み出していない奴らが、なぜのうのうとフロアを歩けるのだ。

当時の私はそう思っていた。

年に一度謝恩会というゴミのようなイベントがあるのだが、社長とのじゃんけん大会で棒立ちのまま鼻をほじってたら、総務の次長に「楽しそうな顔してないけど、楽しんでる?」と言われ、見てわからないのかと思った。

 

入社3年目を迎えた春、次長が交替した。

取引先が紛失した書類を「おまえが失くしたのだろう」とこいつに詰問され、私は退職を決意した。

次の仕事などもちろん決まっていなかった。「留学したい」と適当に理由をつけた。

退職面談では、次長に「逃げてるだけにしか思えない」と言われたことは、はっきりと覚えている。

なぜ逃げたらいけないのだろうか。

私に2人分の仕事を同じ給料でやらせておいて、どの口がそんなことを言えるのだろうか。

 

まともに昼飯が食えない日が半年ほど続いた。

大体昼休みは19時頃、遅いときは昼食が20時を回ることもあった。

最後の謝恩会は関西支社と合同の温泉旅行だった。

クソジジイに買い出しに行かされ、それを各部屋に配らされた。

総務の次長から「大変だね〜こんなところに来てまでw」とありがたい労いを頂戴した。

 

ネットで「過去に戻る方法」やら「上司を呪う方法」などと検索する日々が続いた。

後輩は私を真似て、クソジジイのことを「クソジジイ」と呼ぶように仕立て上げた。

可愛らしい顔をした女の子なのだが、「これってクソジジイのハンコもらったらどうすればいいですか?」「今日ってクソジジイは終日外出ですよね?」などと日常会話の中で使い始めたので笑った。

 

2015年5月、私は退職した。

あと2カ月待てばボーナスが出たが、もう我慢の限界であった。

 

しばらく働きたくなかったので、その半年後、私は海外へ逃亡した。

 

 

新卒で就活してたときの話 ②

最初は、目眩かと思った。

毎日毎日面接に説明会に疲れきっていた。

目眩が起きてもおかしくはなかった。

やがて、目眩ではなく建物が大きく揺れているのに気づいた。

テレビをつけると、津波が電柱をなぎ倒していく映像が映し出された。

私はただそれを呆然と眺めていた。

 

東海道新幹線はすぐに復旧した。

東京のアパートに戻ると、ブレーカーが落ち、食器が散乱していた。

計画停電、電車の間引き運行、スーパーの物資不足で就活どころか日々の生活すらままならない状況に突き落とされ、2012年度の採用を取りやめる企業が続出した。

さらに悪いことに、ガンを患っていた父が亡くなった。

説明会の予定が入っており東京にいたため、父の死に目には会えなかった。

自分を殺して面接を受けて落とされて、一体何のためにこの作業を続けていかなければならないのだろう。

友人AもBも、まだ内定はなかった。

なぜ自分の年度に1000年に一度の災害が発生するのだろうか。

毎日そんなことばかり考えていた。

 

4年生に進級したが、内定はなかった。

当時は一般的に、4年の5月頃までには内定が出ていないとまずいと言われていた。

大手ホワイトの採用が終了する時期だからである。

2ちゃんの就活板では、"ロクガツオーテ" "アキサイヨー"などという言葉が目につくようになったが、そんなものは留学帰りのハイスペック学生のために設けられたもので、私のような無能には何の関係もないことであった。

数十社書類を出し、最終面接までこぎつけたのはわずかに5社。

ほとんどの企業が独自のエントリーシートと履歴書を要求してくるため、書類の作成に膨大な時間を費やした。

書類は全て手書きであることが暗黙の了解であった。

徹夜で書類を仕上げても、当日説明会の会場がわからず、5時間かけて仕上げた書類を駅のゴミ箱に突っ込んで帰宅したこともあった。

とうの昔に第一志望から第三志望までの企業はすべて落ち、ついに小売やパチンコにまで手を出すことを検討し始めた。

ほぼ毎週名古屋と東京を片道6時間かけてバスで移動しており、気が狂いそうだった。

 

6月のある日、私は説明会に参加するため、東京メトロ東西線に乗っていた。

外は湿気を含んだ不快な暑さで、ネクタイを締めてスーツを着ていると意識が朦朧としてきた。

茅場町に着く前、自動放送の後に珍しく車掌の肉声の放送が流れた。

 

「外は大変暑いですが、皆さまこの先もお気をつけてお出かけください」

 

なぜか涙ぐんでいた。

 

私はあることに気づいた。

今まで馬鹿正直に面接では自分のことを話していた。

しかし、それでは通らない。

嘘をつく後ろめたさ、経験を水増し捏造する罪悪感を捨てる。

持っていない資格を持っていると言うのは確かにまずい。だがTOEICの点数の水増しや活動していないサークルのエピソードの捏造など、取るに足らないことだ。

正直者が馬鹿を見る世界であるということに、やっと気づいたのだ。

私は自己PRを練り直した。

「晩年の父の世話をしつつ、サークルでの役割を果たし、更に資格試験にも合格するためにどのような工夫をしたか、なにが改善ポイントであったか」を面接で話し、父の死をも自らの面接のアピールに組み込んだ。

 

7月、やっと内定が出た。

大手物流会社の物流子会社というよくわからないポジションの会社である。

おそらく親会社が税金逃れに作った会社なのだろう。

約50社応募して、内定はたったの1社のみであった。

 

2012卒の就活は混迷を極めた。

今とは違う超買い手市場の中、トンボ鉛筆の佐藤のように、就活生を見下しつけあがる企業や人事も現れた。

 

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蜂起した就活生のパルチザンに捕えられ、炎天下の茅場町を徒歩で行軍させられる圧迫面接を行なった面接官。この後銃殺刑となった。(2011年 8月 茅場町)

 

 

私はあの地獄を絶対に忘れない。

私に圧迫面接をしてきた面接官の顔も、会社も、すべて鮮明に覚えている。

友人Aは就職留年、友人Bは専門学校へ進学する道を選んだ。

 

その後の大学生活は楽しいものであった。

友人たちと毎日遊び歩いた。

2012年3月、私は卒業した。

新卒で就活してたときの話①

人生の転機と言うが、その出来事が人生の転機であったのかどうかなど、死ぬ間際までわからない。

 

2010年当時、私は大学3年生であった。

東京の武蔵野で一人暮らしをしていた私は、人生の絶頂期を迎えようとしていた。

彼女さえいなかったが、友達もそこそこ多く、ゼミは私ともうひとりの友人以外は全員女子というハーレム状態が構築されていた。

 

旅行が好きだったので、旅行会社に就職できたらいいなと思っていた。

当時の就活解禁は3年生の6月。

2年生が終わった春休みにインターンに参加していたから、実質大学生活の半分を就活に供出しなければならないようなスケジュールが組まれていたことになる。

インターンは旅行会社に行った。法人営業ではなくカウンターセールスなので、ひたすら届いたパンフレットに判子を押すだけの作業が大半であった。

それ以外にやることがないので、社員の人が物凄い速さで押していくのに対し、私はワタモテのもこっちが文化祭の準備で紙を裁断しているかのごとく、ちんたら作業した。

 

3年次から福祉系のゼミに参加した。

精神保健福祉士という国家資格を目指すためのゼミである。

しかしこの資格の受験資格を得るためには、4年次の夏を全て費やし、病院での実習に参加しなければならない。

それはいい。問題はその実習に参加するかしないかを、3年の夏までに判断しなければならないことであった。

もし4年の初夏頃までに一般企業に内定が決まれば、その後は実習に参加できる。そして、一般企業で働きながら精神保健福祉士という資格があれば、辞めても食うには困らない。

資格は欲しいが精神保健福祉士として病院で働きたくない私からすれば、非常に魅力的な計画であった。

しかし、4年の初夏までに一般企業に内定をもらえなけば、精神保健福祉士になるしかない。

やはり鉄道会社か旅行会社で働きたかった。

旅行会社は給料が安いことがわかっていたので、鉄道会社で観光列車とかを企画する人になりたかった。

2年次で国内管理者の資格を取り、3年次で総合管理者の資格を取得する予定であった。

精神保健福祉士の試験は4年の春先なので、一般企業への就活を再開する時間など残されてはいない。

ちなみに、精神保健福祉士の就活はかなり遅く、かつ決まるのも簡単である。

したがって、もし一般企業への就活に絞り、結果、ブラック業界からしか内定をもらえなかった場合は死を意味する。

希望業界から内定をもらえることに賭けて精神保健福祉士をあきらめるか、精神保健福祉士になるか。

まさに究極の選択を迫られていた。

 

教授やキャリア課と面談し、一般企業に絞って就活することを決めた。

「今あなたは人生の岐路に立っている」と言われたが、そんなことは言われなくてもわかっていた。

こうして、私の就活戦争は始まった。

このときは、このあとに2回も就活戦争に巻き込まれることなど、知る由もなかった。

 

3年生の10月、初めて合同説明会に参加した。

六本木であった。会場には暗い色のスーツに身を包んだ学生たちの、長蛇の列ができていた。(図1)

 

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(図1 合同説明会に並ぶ就活生 2010年10月4日 六本木)

 

仲のいい友人二人と参加した。ゼミは違うが、1年生の頃からの付き合いの友人である。

友人Aは広告業界、マスコミを目指しており、Bはまだ特に業界は決めていなかった。

初めての合同説明会は2〜3社話を聞いて終わった。

その後は六本木でハンバーガーを食べて帰宅した。

こんな早くから動いているのだから、まず大丈夫だろうという何の根拠もない自信があった。

 

当時の就活の様子は2010年に書かれたこのSSを読んでもらえれば、大体の雰囲気がつかめると思う。

http://elephant.2chblog.jp/archives/51505209.html

 

11月には、初めてビッグサイトで開かれた合同説明会に参加した。

人気企業の説明会を聞くには事前に予約しなければならず、予約開始数秒で満席となった。

当日は友人Bと参加した。人混みが嫌いな私は、商船三井の説明だけ聞いてあと、友人とカレーを食って帰路についた。

 

12月になると、徐々に単独で会社説明会を開く企業も増えてくる。こちらも人気企業は一瞬で売り切れるため、開始時間にパソコンの前でスタンバイをしていなければならなかった。

今はどうか知らないが、当時は説明会に参加しないと受験資格すら得られない企業がほとんどであった。説明会と筆記試験や一次面接を兼ねている企業が多かったためである。

そして説明会で出てくるのが、就活名物首振り赤べこ学生である。私も一度だけ見たことがある。

満面の笑顔でひたらすら頷いており、狂気を感じた。

ベンチャー企業の中ではすでに選考を開始している会社もあった。

 

1月になると、面接が始まった。

初めて受けた面接は中小の旅行会社であった。

結果は落ちたが、別にどうということはなかった。

この頃から旅行会社だけ見ていてはまずいと思い、物流業界にも手を出し始めた。

航空会社やホテルから座席や部屋を仕入れ、ひとつの商品としてパッケージツアーを売る旅行会社と、航空会社や船会社からスペースを買い、それを自社の輸出入通関サービスや陸送サービスに組み入れ、ドアデリバリーを構築する物流会社。

形に見えないものを売るという点では同じであった。

 

2月にはてるみくらぶを受験した。

集団面接にもかかわらず、5分で終了した。

二時面接で落ちたが、ゴミのような会社だなと思った私の勘は外れてはいなかった。

3月も上旬になると、スケジュールも過密になってきた。

1日に2社以上の選考に参加することなど珍しくもなかった。ひたすらエントリーシートと履歴書を量産し、私は頭が悪いのでSPIの勉強をした。

2011年3月10日、名古屋の海運会社を受けるため、実家に帰った。

 

(続く)

大崎下島に至る道

広島県尾道から因島生口島大三島を経て今治へ至るしまなみ海道は、その景観の美しさからサイクリストの聖地として知られている。

尾道では乗り捨て可能のレンタサイクルがいくつかあり、気軽にしまなみ海道のサイクリングを楽しむことができる。

尾道駅前の数十メートル先はもう海で、数キロ先の向島を手に取るように見ることができる。

晴れた日に駅を降りると瀬戸内の穏やかで美しい海が眼前に広がり、後ろをむけばせり出した急峻な斜面に家々や寺院がひしめくように建っている。

かつて志賀直哉尾道へ滞在し、そのことを「暗夜行路」にも書いている。

 

しかし広島にはもうひとつのサイクリングロードが存在する。

呉市から下蒲刈島上蒲刈島を経て、大崎下島へ至るとびしま海道である。

しまなみ海道と違い岡村島で行き止まりだが、そこからフェリーで今治へ渡ることができる。

4月下旬のある土曜、私は呉からバスでこの島へ渡った。

大崎下島の御手洗へ行きたかった。

途中で腹が痛くなりうんこをしたくなり、止むを得ずバスを途中で降りるというトラブルはあったが、夕方少し前に到着した。

 

少し歩いただけでこの島が好きになった。

 

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オランジーナのCMのロケ地にもなっている。

 

桟橋に寝そべり、しばらくぼーっとしていた。

 

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その夜は古い医院を改築したゲストハウスに泊まった。

開業1周年パーティに参加した。

ウェーイ系のパーティかと思いきや、パワポとかで開業の経緯などを説明するガチのやつだった。

この宿は本当におすすめである。

旅籠屋 醫(くすし)というゲストハウス。

 

 

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翌朝は同じ宿に泊まっていたおじさんが、岡村港まで車で送ってくれた。

岡村港から今治港まで、甲板で海を見ながら「瀬戸の花嫁」を聞いていた。

かつてここまで聴いている曲と見ている景色がマッチしたことがあっただろうか。

 

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涼しくなったらまた行きたい。

灘駅編へ続くかも。

体調不良で会社休みまくって干された話

また体調不良で休んでしまった。

発熱中の3日間のうち、1日は不幸中の幸いで有給中だったので、病欠日数は2日にとどめられた。

 

しかし、昨年9月末に入社してすでに6日も病欠で休んでいる。

 

12月 胃腸風邪 1日

2月   高熱  3日

7月   高熱  2日

 

これ以上は本当にやばい。

もうすでに「自己管理できないチンカス野郎」というレッテルは貼られているだろうが、明日からどう振る舞えばいいのかわからない。

金曜出社後「ご迷惑をおかけしてすみませんでした」と頭を下げたが、冷たい視線が向けられただけだった。

 

ひとまず秋頃まで当面の有給取得見合わせを行う。

今回医者からもらった抗生物質を温存し、次回発熱時はロキソニンで微熱まで下げた後出社することを肝に命じた。

 

そもそも、なぜこんなに体が弱くなったのだろう。

学生のときは風邪をひいてもせいぜい微熱までで、鼻水や喉の痛みはあったが、1週間もすれば治った。

しかし最近だとまず熱が39℃台まで上がり、鼻づまりは全くない。

外から見たときの症状が発熱だけなので、周りから気づかれにくい。

糞みたいな症状である。

 

仕事も毎日毎日トラブルばかりで正直気疲れしてしまった。

業務上携帯電話を持たされるのだが、この前の発熱時も夜の11時すぎにかかってきた。

幸い簡単な問い合わせだったが。

私が出勤の日や誰もいない日曜などにかかってくるのはわかるが、休みの日の夜中(平日)にかかってくるのは正直納得がいかない。

そもそも休みの日は資料が手元にないから質問されたところでなにもわからない。

こういうポジションだと言われればそれまでだが、これが数十年続くのかと思うと気が重い。

瀬戸内の曽祖父

三原駅を定刻どおりに出発した列車は山陽本線本線と別れ、呉線に入って行く。

ほどなくして左側に瀬戸内の穏やかな海を望むことができた。陽光を浴びてきらめく海面は驚くほどきれいだった。

対岸の島々や入り江には造船所や鉄工所が林立し、かつてこの地域が重工業で栄えた故に空襲や艦砲射撃の標的となっていたことを思い出した。

 

私の曽祖父は生まれてしばらくしたあと、広島県呉市の小さな造船会社へ養子へ出された。

当時は大正末期、名古屋から急行で20時間かかった。

曽祖父はまだ私が幼稚園に入る前、よくこの話を得意げに私に聞かせた。

曽祖父は私と違い働き者であった。尋常小学校に入ると造船所の手伝いをするようになった。

造船所のドックは幼い曽祖父にとって、格好の遊び場であった。大きなタンカーから数トンクラスの小さな浚渫船まで、造船所に出入りする船は様々であった。

作業員の手元で光るオレンジ色の火花、リベットを留める耳をつんざく音、塗料の匂い。その全てが曽祖父にとって日常であった。

中等学校卒業が迫った昭和15年の暮れのある日、造船所に一人の新入社員がやってきた。

曽祖父はその姿を見て驚いた。16歳くらいの少女だったのだ。

当時は女性が働くことが珍しかった時代である。苦労してきたのだろう。その目はすべてを諦めきったように光もなく、吸い込まれるような暗さで、眉間の皺は刻み込まれたように深かった。

曽祖父は自分の名前を告げたが、その少女は穴の空いたような瞳で曽祖父を見つめるだけだった。

「無駄じゃ。こいつ、おしなんだとよ。だけん話しかけても答えれん」

横に立っていた作業員が答えた。

"おし"とは聾唖障害のことを指すらしい。

その日から曽祖父はその少女に仕事を教えることになった。今で言うOJTである。

名をゆう子といった。

日米開戦が迫っていた時代であった。船の受注は右肩上がりに増えていった。

ゆう子はとても働き者だった。ほとんど休憩もとらず、早朝から夜まで働いた。物覚えも早かった。

コミュニケーションはもっぱら筆談であった。

曽祖父から言わせれば「俺の教え方が良かった」とのことだが、実際のところはわからない。

やがてそれまでドック入りすることが多かった貨物船や浚渫船の代わりに、駆逐艦軽巡洋艦がドック入りすることが多くなった。

彼女の手は造船所で働くほかの男たちとは違い、小さな手をしていたので、駆逐艦や潜水艦の12.7ミリ砲の中を磨くのに適しており、重宝がられた。

最初のうちはゆう子が聾唖だから、女だからと馬鹿にしていたほかの従業員たちもその実力を認め、すっかり打ち解けるまでにいたった。少しだが笑うことも増えた。

しかし眉間の皺だけはどうしても取れなかった。

昭和20年3月の初め、曽祖父のもとにも赤紙が届いた。造船技師として徴兵を免除されてきたが、どうやらいよいよ状況は逼迫しているらしかった。

ゆう子は泣きじゃくりながら嗚咽をぶつけたが、どうにかなるものでもなかった。

曽祖父が発つのは3月19日だった。

 

飛行機の爆音の中で曽祖父は飛び起きた。

外へ出ると、探照灯に照らされた銀色のB29の姿が見えた。小さく見えるのは艦載機だろう。

ぼんやりとそれを見上げていると、すぐ横の家の庭に焼夷弾が突き刺さるのが見えた。

我に返った曽祖父は寝間着のままで造船所へ向かった。

ドックには海軍からの命を受けて建造中の重巡洋艦が停泊している。行って自分がどうにかなるものではないが、体が動いていた。

ドックはまだ無事だったが、火の手が上がるのは時間の問題だった。

ゆう子もドックの前に棒立ちになっていた。寄宿舎から飛び出してきたのだろう。

そのとき、停泊中の巡洋艦から轟音とともに火柱が上がった。

艦橋の右半分が吹き飛び、真っ黒い煙があがっていた。呆然としているゆう子の顔を火柱が照らしていて、曽祖父はそれにしばらく見とれていたらしい。

彼女は声にならない叫びをあげ、憎悪のこもった目でB29を睨み付けると、巡洋艦に向かって駆け出して行った。

曽祖父は慌ててそのあとを追おうとしたが、砲塔がものすごい音を立てて吹き飛んだ。弾薬庫に誘爆したのだろう。船首は変形し無残な姿になっていた。

曽祖父はこのとき体内に入ったガラスや金属の破片を死ぬまで取り出すことはしなかった。

ゆう子の姿が見えなかった。

足を引きずりながら巡洋艦に近づくと、鉄骨の下敷きになっている彼女がいた。

曽祖父は聞こえないのがわかっていても、名前を呼び続けた。

ゆう子はうっすらと目を開け、かすかに笑うと「ありがとう」と言った。確かにあのとき彼女がそう言った。私は何度も曽祖父がそう言うのを聞いた。

とても穏やかで幸せそうな顔をしていた。

「なにしとるんじゃ! すぐに離れろ!」

すっ飛んできた父親とほかの従業員に羽交い締めにされ、引き剥がされた。

直後、3回目の爆発が起き、巡洋艦は数分もたたないうちに鉄の塊に変わり果てた。

鉄骨の下敷きになっている遺体が発見されたのは翌朝のことだった。

 

曽祖父は身体中に破片を受ける重傷を負い、その後、終戦を迎えた。

 

呉線仁方駅の近くに小さな和菓子屋がある。

曽祖父とゆう子はそこのまんじゅうが好きだったらしい。

名前はうろ覚えだった。駅前タバコをふかしていた暇そうなタクシー運転手に連れて行ってもらった。

90近い店主は、私の話を黙って聞いていた。

帰り際「これ日持ちするから」と言って渡されたのは落雁だった。

「あの子らの墓に供えたって」

店主は涙を滲ませていた。私は礼を言って受け取ると、曽祖父が好きだったまんじゅうを熱いお茶で流し込んだ。

人間だけが耐えるのだ

この前TLを眺めていたとき、あるツイートが印象に残った。

 

憂鬱な気分のときに無理して気分を上げようとしても無駄。

憂鬱なときは暗い音楽を聴いたり暗い番組を見たりして、完全に気分を最下層まで落とす。

あとは上がるしかなくなる。

 

おぼろげだが、確かそんなような内容だったと思う。

私と同じ考えの人がやはりいるのだ。

就活で何十社受けても内定をもらえなかったとき、仕事で自分の案件にだけイレギュラーが多発したとき、取引先に書類を失くされたのに上司に自分のせいにされたとき。

いつも帰り道にこの曲を聴いていた。

 

加古隆の「パリは燃えているか

 

NHKのドキュメンタリー「映像の世紀」に使われる曲である。歌詞はなく、とても暗い。

悪い言い方をすれば、ものすごく陰気くさい。

何か嫌なことがあったあとにこの曲を聴くと、本当に気分が最下層まで落ちていくのをひしひしと感じる。

 

発売後に自殺者が多発したというハンガリーの「暗い日曜日」という曲があるが、音楽というものは酸いも甘いも人間をコントロールし得る存在なのかもしれない。

 

私は小学生の頃からこの「映像の世紀」が大好きであった。

特に第二次世界大戦を描いた第5集「世界は地獄を見た」はもう何度見たかわからない。

 

当時のモノクロ映像に、その時代を生きた人々の手記や述懐がナレーションとしてかぶせられる。

まるで自分がその時代を追体験しているような気分になる。

 

その中で頭からこびりついて離れないナレーションがある。

 

"スターリングラードはもはや街ではない。日中は火と煙がもうもうと立ち込め、一寸先も見えない。炎に照らし出された巨大な炉のようだ。それは焼けつくように熱く、殺伐として耐えられないので、犬でさえヴォルガ川に飛び込み、必死に泳いで対岸に辿り着こうとした。動物はこの地獄から逃げ出す。どんなに硬い意志でも、いつまでも我慢していられない。人間だけが耐えるのだ。神よ、なぜ我らを見捨てたもうたのか"

 

世界史を習った人ならスターリングラードという街の名を聞いたことがあるだろうか。

南ロシアのヴォルガ河畔に位置する街である。

1942年夏から1943年の初めまで、この街で史上最大の市街戦が行われた。

グラードはロシア語で「街」を意味し、文字どおりこの街は「スターリンの街」という意味であった。

ヒトラーは重工業の要衝であったこの街を陥落させ、一気にモスクワに攻め込み、ロシアをねじ伏せるつもりであった。

 

これはソ連兵の回想であるが、ソ連兵は逃げれば味方に射殺され、突撃すれば敵に殺されるかの二択を迫られていた。

 

次元は違えど、「人間だけが耐えるのだ」という悲痛なソ連兵の叫びは、私の中で生涯消えることはなく、苦しい局面に立たされたときに思い出すのだろう。