何もない人
「なぜ自分だけがこんな目に遭わねばならないのか」
多かれ少なかれ、ほとんどの人がこう思ったことがあるだろう。
自我が芽生えて記憶が蓄積され始めると、憂鬱なことやつらいことは尚更記憶に残りやすいものだ。
私が初めて「なんで俺だけこんな目に」と思ったのは、小学校低学年のときだと思う。
それが習慣化し、脳内に私を"こんな目"に遭わせる敵を作り上げた。以来30年近くその適と戦い続けている。それが私の考え方を歪めてしまったのかもしれない。
「なぜ自分だけがこんな目に遭わねばならないのか」と思ったとき、私は峠三吉の「仮繃帯所にて」という詩を思い出す。原爆投下直後の情景を詩にしたものである。
2020年は「なんで俺がこんな目に」と何度思ったかわからない。
3月になって武漢ウイルスが国内にも蔓延を始めると、上司から私に「課員のテレワーク案を立案せよ」と下令された。
派遣のお局たちは「そんなやり方無理に決まってる」と否定的だった。
10年以上同じやり方をしてきた派遣社員に対し、アイデアを求め衝突と軋轢を生みながらお粗末な立案をした。
同時進行で、取引先と別の交渉もやっていた。そちらはすべての案が取引先に却下されたため、遅々として進まなかった。
毎晩上司が夢に出てきて眠れず、毎朝何を食べても嘔吐する。まるで埼玉グラードにいたときと同じだ。4年前に処方されたデパスが手放せなくなった。
やがて上司は私に苛立ちをぶつけるようになり、何を言っても否定され、ほとんど建設的な話ができなくなった。
激昂するタイプではないが、私が上司の話す内容を少しでも理解できないと、苛立ちと怒りを露わにした。
4月には資金繰りの目処がつかなくなり、ほぼすべての業務が停止。週に1日だけの出勤となり、給与は4割カット、賞与はゼロとなった。
派遣社員は全員契約終了となった。
図らずも私が担当していた交渉も進める必要がなくなり、心の奥底では安堵してしまった。
今月、核になる業務が再開する目処が立った。
上司は「すべておまえにやらせる」と言った。これが失敗すれば、私がいる支店は二度と立ち上がれないだろう。
なぜ俺がこんな目に遭わねばならないのか。
なぜこの業界に入ったのか。
なぜこの会社に入ったのか。
時間は巻き戻せないし、未来も予想できない。
自分の人生の責任は自分にあるのは理解している。
だがもう疲れた。
こんなのをあと40年も続けなければならないなど、私のような弱者にとっては想像するだけで気が遠くなりそうだ。
デパスも残り6錠しかない。
私は今日も、峠三吉の「仮繃帯所にて」を寝る前に読むのだろう。
海外旅行初心者におすすめなヨーロッパの街
先日久しぶりにヨーロッパへ行ったので、今まで行ったヨーロッパの都市で旅がしやすかった街をランク付けしました。
治安 ★★★★★
人の優しさ ★★★★★
日本からのアクセス ★★★★☆
料理のうまさ ★★★☆☆
あまり馴染みはないかもしれないが、イタリアの東隣、オーストリアの南隣に位置している小国である。
とにかく治安がいい。ベンチで昼寝できるレベルである。
また関わった人たちもほぼ例外なく優しく、嫌な思いをすることは全くなかった。
日本からも1回の乗り継ぎで行けるので、おすすめである。
料理はあまり印象に残らなかったが、可もなく不可もなくと言った具合。
2位 ピラン、スロベニア
治安 ★★★★★
人の優しさ ★★★★★
日本からのアクセス ★★★☆☆
料理のうまさ ★★★☆☆
1位と同じく、スロベニアの都市を推したい。
治安と人の優しさは言うまでもないが、アクセス面ではやや劣る。しかしリュブリャナからもバスで2時間ほどであり、イタリアのトリエステからも遠くない。
アドリア海沿岸は貿易で繁栄した街が多く点在し、北から南へ巡るのも楽しいだろう。
海沿いの港町なので、白い建物にオレンジ屋根の美しい街並みを見ることができる。
最近日本人に人気のクロアチアのドブロブニクに似た雰囲気だが、あちらよりも観光客も少なく、お勧めである。
3位 アムステルダム、オランダ
治安 ★★★★★
人の優しさ ★★★★★
日本からのアクセス ★★★★★
料理のうまさ ★★☆☆☆
日本から直行便があり、アクセスが良い。
治安も非常によく、人は優しい。
街の中に運河が巡らされており、市民の水辺の生活を垣間見ることができる。
ゴッホ、レンブランド、フェルメールといった名だたる画家たちの作品を収めた美術館はとても見応えがある。
食べ物が正直残念だったが、ワッフルは本場だけあってとてもうまい。というか石を投げればワッフル屋に当たるんじゃないかというくらいワッフル屋が多い。
4位 ベルゲン、ノルウェー
治安 ★★★★★
人の優しさ ★★★★☆
日本からのアクセス ★★★★☆
料理のうまさ ★★★☆☆
ノルウェー西部の街である。日本から1回の乗り継ぎで行けるが、だいたいの旅行者はオスロからのベルゲン特急、フィヨルド観光とセットにして訪れるだろう。
ずっと雨だったので陰気な写真しかないが、小さくまとまっていて、とても可愛らしい街であった。
ちなみにセットにされがちなソグネフィヨルドは行く価値なし。
治安 ★★★★☆
人の優しさ ★★★★☆
日本からのアクセス ★★★☆☆
料理のうまさ ★★★☆☆
ここは確か冬季オリンピックの舞台になった街ではないだろうか。
街のすぐ背後に緑を湛えた山を望むことができる美しい街である。
駅前のハンバーガー屋で、店員に「すいません、ここはインスブルックですか?」と聞いていたおばさんがいたが、「違います」と言われたらどうするつもりだったのだろうか。
アップルパイが有名らしい。ウィーンやミュンヘンから特急でアクセスできる。
6位 チェスキー・クルムロフ、チェコ
治安 ★★★★☆
人の優しさ ★★★★☆
日本からのアクセス ★★★☆☆
料理のうまさ ★★★★☆
ここは文句なしに美しい。
騙されてたと思って一度行ってみてほしい。
街の中心をブルタヴァ川(モルダウ川)が蛇行しながら流れている。
日本の合宿曲「モルダウ」の作者、スメタナの国であり、モルダウはチェコ人なら誰でも知っている有名人。
チェコ料理もヨーロッパの中ではかなりうまいほうだと思う。ビール好きならチェコへ行くべき。
7位 ネルソン、ニュージーランド
治安 ★★★★★
人の優しさ ★★★★★
日本からのアクセス ★★☆☆☆
料理のうまさ ★★★☆☆
ニュージーランドだけど、ここも良かった。
人口3万ほどの田舎町で、自然に溢れた街である。
「サニーネルソン」と言われ、ニュージーランドでいちばん晴れが多い街だ。
人は優しく、バスターミナルでキョドッていたら「どうしたの?」と誰かが必ず声をかけてくれた。
「affair」というカフェの店員がかわいい。結婚してくれ。
以上、7選でした。
次はクソつまんなかった街をランキングします。
『深夜特急』の世界
『深夜特急』という本を知っているだろうか。
当時26歳だった沢木耕太郎が、香港からロンドンまでを旅した紀行文であり、第1巻出版から30年以上経った現在でもバックパッカーのバイブルとしての地位を確立している。
私は大学2年のとき、この本を初めて手にした。
私は幼少の頃から鉄オタだったが、そろそろ海外の鉄道、特にヨーロッパの鉄道に乗ってみたいという願望が芽生えてきた。
ネットでいろいろ検索しているうちに、この本の存在を知ったのだ。
調べてみると、大学の図書館にあるという。
私は全3巻をすべて借り、貪るように読んだ。
読み終わった半年後の春休み、私はヨーロッパへ3週間の旅に出た。
今思えば、もっとバイトをして金を貯め、夏休みや春休みをすべて費やしてユーラシアを横断するような旅をしてみたかった。
20歳かそこらの私を旅行に駆り立てたのは、この『深夜特急』であった。
というわけで、ぼくも深夜特急みたいな文章を書いてみたくなったので、次回からオナニー紀行文書きまーす(^-^)
新卒で入った会社を辞めるまでの話
耳の奥で電話が鳴っていた。
それが夢なのか、現実なのか区別がつかない。
やがて意識がはっきりしてくると、自室の白い天井が目に入った。
瞬間、今日の業務のことを考えて憂鬱になる。
私が配属されたのは"輸出混載課"。
各営業所の営業が取ってきた貨物をこの部署で一つのシップメントとして仕立て上げ、混載差益を得ることが課せられた役割であった。
とにかく電話が多い。
平均すると30秒に1回はかかってくる。
課員6名が全員電話中のため、鳴りっぱなしになっていることもザラにあった。
あまりに電話が鬱陶しいので、入社数ヶ月後の面談のときに「電話がうざいのでバイトを入れてほしい」と言ったら、別室に呼び出されてブチギレられた。
意味がわからない。
電話が多すぎで自分の仕事ができないから意見を書いたのに、なぜブチ切れられなければならないのか。
この時から私は会社で自分の意見を言うのを辞めた。
私には同期が二人いた。
男と女ひとりずつである。
二人ともキチガイ激務部署の輸入通関課へ配属され、男のほうは深夜2時まで残業など当たり前だと言っていた。
私は希望していた部署への配属だったし、人間関係は悪くなかったので2人に比べればまだマシであった。
上司課長以下はとてもいい人たちだったが、部長(以下クソジジイ)がクズであった。
親会社出身ではなくプロパーであそこまでのし上がったのは賞賛に値するが、性格が終わっていた。
自分のことを神かなにかと勘違いしている人間であった。
基本的に女性社員を必要以上にチヤホヤし、男性社員をゴミのように扱うのである。
しかし女性をチヤホヤするだけで仕事量が減るわけではないから、女性から支持されているわけではない。
私が入社して2年が経とうとしていた頃、一つ上の先輩が別の支社へ異動を命じられた。
当然、補充が入るものだと思っていた。
しかし、入らなかった。
私は仕事量が2倍になった。始発で出社して終電で帰る日が続いた。
私の怒りは総務へ向いた。いつも暇そうにして完全週休2日を謳歌している部署。説明会で「将来的にはすべての業務を経験してもらいます」と謳っていたが、総務の連中は私の部署へ異動するのか? 絶対しないだろ。何の利益も生み出していない奴らが、なぜのうのうとフロアを歩けるのだ。
当時の私はそう思っていた。
年に一度謝恩会というゴミのようなイベントがあるのだが、社長とのじゃんけん大会で棒立ちのまま鼻をほじってたら、総務の次長に「楽しそうな顔してないけど、楽しんでる?」と言われ、見てわからないのかと思った。
入社3年目を迎えた春、次長が交替した。
取引先が紛失した書類を「おまえが失くしたのだろう」とこいつに詰問され、私は退職を決意した。
次の仕事などもちろん決まっていなかった。「留学したい」と適当に理由をつけた。
退職面談では、次長に「逃げてるだけにしか思えない」と言われたことは、はっきりと覚えている。
なぜ逃げたらいけないのだろうか。
私に2人分の仕事を同じ給料でやらせておいて、どの口がそんなことを言えるのだろうか。
まともに昼飯が食えない日が半年ほど続いた。
大体昼休みは19時頃、遅いときは昼食が20時を回ることもあった。
最後の謝恩会は関西支社と合同の温泉旅行だった。
クソジジイに買い出しに行かされ、それを各部屋に配らされた。
総務の次長から「大変だね〜こんなところに来てまでw」とありがたい労いを頂戴した。
ネットで「過去に戻る方法」やら「上司を呪う方法」などと検索する日々が続いた。
後輩は私を真似て、クソジジイのことを「クソジジイ」と呼ぶように仕立て上げた。
可愛らしい顔をした女の子なのだが、「これってクソジジイのハンコもらったらどうすればいいですか?」「今日ってクソジジイは終日外出ですよね?」などと日常会話の中で使い始めたので笑った。
2015年5月、私は退職した。
あと2カ月待てばボーナスが出たが、もう我慢の限界であった。
しばらく働きたくなかったので、その半年後、私は海外へ逃亡した。
新卒で就活してたときの話 ②
最初は、目眩かと思った。
毎日毎日面接に説明会に疲れきっていた。
目眩が起きてもおかしくはなかった。
やがて、目眩ではなく建物が大きく揺れているのに気づいた。
テレビをつけると、津波が電柱をなぎ倒していく映像が映し出された。
私はただそれを呆然と眺めていた。
東海道新幹線はすぐに復旧した。
東京のアパートに戻ると、ブレーカーが落ち、食器が散乱していた。
計画停電、電車の間引き運行、スーパーの物資不足で就活どころか日々の生活すらままならない状況に突き落とされ、2012年度の採用を取りやめる企業が続出した。
さらに悪いことに、ガンを患っていた父が亡くなった。
説明会の予定が入っており東京にいたため、父の死に目には会えなかった。
自分を殺して面接を受けて落とされて、一体何のためにこの作業を続けていかなければならないのだろう。
友人AもBも、まだ内定はなかった。
なぜ自分の年度に1000年に一度の災害が発生するのだろうか。
毎日そんなことばかり考えていた。
4年生に進級したが、内定はなかった。
当時は一般的に、4年の5月頃までには内定が出ていないとまずいと言われていた。
大手ホワイトの採用が終了する時期だからである。
2ちゃんの就活板では、"ロクガツオーテ" "アキサイヨー"などという言葉が目につくようになったが、そんなものは留学帰りのハイスペック学生のために設けられたもので、私のような無能には何の関係もないことであった。
数十社書類を出し、最終面接までこぎつけたのはわずかに5社。
ほとんどの企業が独自のエントリーシートと履歴書を要求してくるため、書類の作成に膨大な時間を費やした。
書類は全て手書きであることが暗黙の了解であった。
徹夜で書類を仕上げても、当日説明会の会場がわからず、5時間かけて仕上げた書類を駅のゴミ箱に突っ込んで帰宅したこともあった。
とうの昔に第一志望から第三志望までの企業はすべて落ち、ついに小売やパチンコにまで手を出すことを検討し始めた。
ほぼ毎週名古屋と東京を片道6時間かけてバスで移動しており、気が狂いそうだった。
6月のある日、私は説明会に参加するため、東京メトロ東西線に乗っていた。
外は湿気を含んだ不快な暑さで、ネクタイを締めてスーツを着ていると意識が朦朧としてきた。
茅場町に着く前、自動放送の後に珍しく車掌の肉声の放送が流れた。
「外は大変暑いですが、皆さまこの先もお気をつけてお出かけください」
なぜか涙ぐんでいた。
私はあることに気づいた。
今まで馬鹿正直に面接では自分のことを話していた。
しかし、それでは通らない。
嘘をつく後ろめたさ、経験を水増し捏造する罪悪感を捨てる。
持っていない資格を持っていると言うのは確かにまずい。だがTOEICの点数の水増しや活動していないサークルのエピソードの捏造など、取るに足らないことだ。
正直者が馬鹿を見る世界であるということに、やっと気づいたのだ。
私は自己PRを練り直した。
「晩年の父の世話をしつつ、サークルでの役割を果たし、更に資格試験にも合格するためにどのような工夫をしたか、なにが改善ポイントであったか」を面接で話し、父の死をも自らの面接のアピールに組み込んだ。
7月、やっと内定が出た。
大手物流会社の物流子会社というよくわからないポジションの会社である。
おそらく親会社が税金逃れに作った会社なのだろう。
約50社応募して、内定はたったの1社のみであった。
2012卒の就活は混迷を極めた。
今とは違う超買い手市場の中、トンボ鉛筆の佐藤のように、就活生を見下しつけあがる企業や人事も現れた。
蜂起した就活生のパルチザンに捕えられ、炎天下の茅場町を徒歩で行軍させられる圧迫面接を行なった面接官。この後銃殺刑となった。(2011年 8月 茅場町)
私はあの地獄を絶対に忘れない。
私に圧迫面接をしてきた面接官の顔も、会社も、すべて鮮明に覚えている。
友人Aは就職留年、友人Bは専門学校へ進学する道を選んだ。
その後の大学生活は楽しいものであった。
友人たちと毎日遊び歩いた。
2012年3月、私は卒業した。
新卒で就活してたときの話①
人生の転機と言うが、その出来事が人生の転機であったのかどうかなど、死ぬ間際までわからない。
2010年当時、私は大学3年生であった。
東京の武蔵野で一人暮らしをしていた私は、人生の絶頂期を迎えようとしていた。
彼女さえいなかったが、友達もそこそこ多く、ゼミは私ともうひとりの友人以外は全員女子というハーレム状態が構築されていた。
旅行が好きだったので、旅行会社に就職できたらいいなと思っていた。
当時の就活解禁は3年生の6月。
2年生が終わった春休みにインターンに参加していたから、実質大学生活の半分を就活に供出しなければならないようなスケジュールが組まれていたことになる。
インターンは旅行会社に行った。法人営業ではなくカウンターセールスなので、ひたすら届いたパンフレットに判子を押すだけの作業が大半であった。
それ以外にやることがないので、社員の人が物凄い速さで押していくのに対し、私はワタモテのもこっちが文化祭の準備で紙を裁断しているかのごとく、ちんたら作業した。
3年次から福祉系のゼミに参加した。
精神保健福祉士という国家資格を目指すためのゼミである。
しかしこの資格の受験資格を得るためには、4年次の夏を全て費やし、病院での実習に参加しなければならない。
それはいい。問題はその実習に参加するかしないかを、3年の夏までに判断しなければならないことであった。
もし4年の初夏頃までに一般企業に内定が決まれば、その後は実習に参加できる。そして、一般企業で働きながら精神保健福祉士という資格があれば、辞めても食うには困らない。
資格は欲しいが精神保健福祉士として病院で働きたくない私からすれば、非常に魅力的な計画であった。
しかし、4年の初夏までに一般企業に内定をもらえなけば、精神保健福祉士になるしかない。
やはり鉄道会社か旅行会社で働きたかった。
旅行会社は給料が安いことがわかっていたので、鉄道会社で観光列車とかを企画する人になりたかった。
2年次で国内管理者の資格を取り、3年次で総合管理者の資格を取得する予定であった。
精神保健福祉士の試験は4年の春先なので、一般企業への就活を再開する時間など残されてはいない。
ちなみに、精神保健福祉士の就活はかなり遅く、かつ決まるのも簡単である。
したがって、もし一般企業への就活に絞り、結果、ブラック業界からしか内定をもらえなかった場合は死を意味する。
希望業界から内定をもらえることに賭けて精神保健福祉士をあきらめるか、精神保健福祉士になるか。
まさに究極の選択を迫られていた。
教授やキャリア課と面談し、一般企業に絞って就活することを決めた。
「今あなたは人生の岐路に立っている」と言われたが、そんなことは言われなくてもわかっていた。
こうして、私の就活戦争は始まった。
このときは、このあとに2回も就活戦争に巻き込まれることなど、知る由もなかった。
3年生の10月、初めて合同説明会に参加した。
六本木であった。会場には暗い色のスーツに身を包んだ学生たちの、長蛇の列ができていた。(図1)
(図1 合同説明会に並ぶ就活生 2010年10月4日 六本木)
仲のいい友人二人と参加した。ゼミは違うが、1年生の頃からの付き合いの友人である。
友人Aは広告業界、マスコミを目指しており、Bはまだ特に業界は決めていなかった。
初めての合同説明会は2〜3社話を聞いて終わった。
その後は六本木でハンバーガーを食べて帰宅した。
こんな早くから動いているのだから、まず大丈夫だろうという何の根拠もない自信があった。
当時の就活の様子は2010年に書かれたこのSSを読んでもらえれば、大体の雰囲気がつかめると思う。
http://elephant.2chblog.jp/archives/51505209.html
11月には、初めてビッグサイトで開かれた合同説明会に参加した。
人気企業の説明会を聞くには事前に予約しなければならず、予約開始数秒で満席となった。
当日は友人Bと参加した。人混みが嫌いな私は、商船三井の説明だけ聞いてあと、友人とカレーを食って帰路についた。
12月になると、徐々に単独で会社説明会を開く企業も増えてくる。こちらも人気企業は一瞬で売り切れるため、開始時間にパソコンの前でスタンバイをしていなければならなかった。
今はどうか知らないが、当時は説明会に参加しないと受験資格すら得られない企業がほとんどであった。説明会と筆記試験や一次面接を兼ねている企業が多かったためである。
そして説明会で出てくるのが、就活名物首振り赤べこ学生である。私も一度だけ見たことがある。
満面の笑顔でひたらすら頷いており、狂気を感じた。
ベンチャー企業の中ではすでに選考を開始している会社もあった。
1月になると、面接が始まった。
初めて受けた面接は中小の旅行会社であった。
結果は落ちたが、別にどうということはなかった。
この頃から旅行会社だけ見ていてはまずいと思い、物流業界にも手を出し始めた。
航空会社やホテルから座席や部屋を仕入れ、ひとつの商品としてパッケージツアーを売る旅行会社と、航空会社や船会社からスペースを買い、それを自社の輸出入通関サービスや陸送サービスに組み入れ、ドアデリバリーを構築する物流会社。
形に見えないものを売るという点では同じであった。
2月にはてるみくらぶを受験した。
集団面接にもかかわらず、5分で終了した。
二時面接で落ちたが、ゴミのような会社だなと思った私の勘は外れてはいなかった。
3月も上旬になると、スケジュールも過密になってきた。
1日に2社以上の選考に参加することなど珍しくもなかった。ひたすらエントリーシートと履歴書を量産し、私は頭が悪いのでSPIの勉強をした。
2011年3月10日、名古屋の海運会社を受けるため、実家に帰った。
(続く)
大崎下島に至る道
広島県尾道から因島、生口島、大三島を経て今治へ至るしまなみ海道は、その景観の美しさからサイクリストの聖地として知られている。
尾道では乗り捨て可能のレンタサイクルがいくつかあり、気軽にしまなみ海道のサイクリングを楽しむことができる。
尾道駅前の数十メートル先はもう海で、数キロ先の向島を手に取るように見ることができる。
晴れた日に駅を降りると瀬戸内の穏やかで美しい海が眼前に広がり、後ろをむけばせり出した急峻な斜面に家々や寺院がひしめくように建っている。
かつて志賀直哉も尾道へ滞在し、そのことを「暗夜行路」にも書いている。
しかし広島にはもうひとつのサイクリングロードが存在する。
呉市から下蒲刈島、上蒲刈島を経て、大崎下島へ至るとびしま海道である。
しまなみ海道と違い岡村島で行き止まりだが、そこからフェリーで今治へ渡ることができる。
4月下旬のある土曜、私は呉からバスでこの島へ渡った。
大崎下島の御手洗へ行きたかった。
途中で腹が痛くなりうんこをしたくなり、止むを得ずバスを途中で降りるというトラブルはあったが、夕方少し前に到着した。
少し歩いただけでこの島が好きになった。
オランジーナのCMのロケ地にもなっている。
桟橋に寝そべり、しばらくぼーっとしていた。
その夜は古い医院を改築したゲストハウスに泊まった。
開業1周年パーティに参加した。
ウェーイ系のパーティかと思いきや、パワポとかで開業の経緯などを説明するガチのやつだった。
この宿は本当におすすめである。
旅籠屋 醫(くすし)というゲストハウス。
翌朝は同じ宿に泊まっていたおじさんが、岡村港まで車で送ってくれた。
岡村港から今治港まで、甲板で海を見ながら「瀬戸の花嫁」を聞いていた。
かつてここまで聴いている曲と見ている景色がマッチしたことがあっただろうか。
涼しくなったらまた行きたい。
下灘駅編へ続くかも。