罰当たりな神頼み
入社日が刻一刻と近づいている。
なので最近はもっぱら運動とエクセルの勉強に勤しんでいる。
ちょっと自慢させてほしいのだが、先日MOSパワーポイント2013は満点合格した。
普通の事務職なら当たり前に使いこなせるソフトが全く使えないので、恥ずかしい限りである。
もう前職のような過ちを繰り返したくはない。いつまでもつらい記憶をほじくり返して被害者意識に浸っている場合ではないのである。
できる範囲で武装して来るべきときに備えなければならない。
市民プールがすでに今年の営業を終了したので、最近は自転車で10キロほど離れた喫茶店まで行き、そこで勉強をしている。
これで勉強のついでに運動が一緒にできるというわけだ。
おまけに部活も勉強も両立! 恋もうまくいきました! やっててよかった進研ゼミ!
さて、今日は神頼みについて書きたいと思う。
「苦しいときの神頼み」ということわざがあるように、よほど敬虔な仏教徒でない限り、日常的にお経をあげたり寺社仏閣に参拝する人は少ないだろう。
しかし我々は神頼みをする。
うんこが漏れそうなとき。宝くじに当選したいとき。好きな人と付き合いたいとき。
別に悪いことではない。むしろ日本の八百万の神々の存在を意識できる、いい機会であると思う。
しかし私は、罰当たり(なのかどうかはわからないが)な神頼みをしてしまったことがある。しかも、今後一切このお願いをしないという自信がない。
2016年 10月下旬
秋も深くなり、朝晩は相当冷え込むようになった。
埼玉北部は霜が降りるほどの冷え込みだった。
当時私は徒歩で40分かけて通勤していた。健康的な運動であり、体重も順調に減っていったが、それは異常な減り方だった。
県道7号線は三国街道のバイパスにもなっており、大型トラックが多く行き交う。
10月も中旬を過ぎると、通勤途中で「あのトラック、ハンドル操作を間違って俺に突っ込んで来てくれないかな」とか、「信号無視したダンプカーが突っ込んできてくれないかな」と考えるようになった。
しかし意地でも「死にたい」とは思わないようにしていた。
苦労して入った会社なのだ。ここで死にたいと思うことは、多大な労力と犠牲を払って行った就職活動を自ら否定しているようなものだ。新卒で入った1社目より優れているに違いない。
当時は老人の運転する車による事故が多発していた時期で、何人か犠牲者が出た。
夜のニュースで交通事故で死亡した人が取り上げられると、「この人は今朝起きたとき、今日自分が死ぬことを予想しただろうか」と、そればかり思った。
そして本当に不謹慎だが、心からうらやましかった。
私には自殺する勇気もなかった。だから神頼みをした。
10月のある週末、碓氷峠鉄道文化村からの帰り、高崎をうろついていた。
私は御朱印集めをしており、目ぼしい神社か寺があれば御朱印をもらおうと御朱印帖を持ち歩いている。
調べてみると、高崎神社という神社を見つけたので行ってみた。
外観は正直特筆すべきことがない神社であった。
賽銭を上げて、悩みに悩んだ末にこのお願いをすることにした。
「交通事故で死ねますように」
住所と名前を頭の中で唱える。
やってしまったと思った。
神聖な場所で、不謹慎なお願いをしてしまった。
御朱印をもらった。
神職の人に「よくお参りくださいました」と言われた。まともに顔を見られなかった。
なんて罰当たりなことをしてしまったのだろう。
私は逃げるように神社を後にした。
半年後、2017年4月
本社からの帰り、私は激詰めさんを助手席に乗せ、高速を運転していた。
眠気で憂鬱さを殺しているだけではないかと思うような、物凄い眠気だった。
「おい! 勘弁してくれよ!」
激詰めさんの声に我に返ると、センターラインを大きくはみ出していた。
後続車が来ていたら死んでいただろう。
いつかあの神社へ謝りに行かなければならない。