人生どうでも飯田橋

日々感じたことを綴ります

故郷へ帰る列車

地元から遠く離れた地で一人暮らしを経験した人にはわかっていただけるだろうか。

長期休暇で地元に帰るときの浮き足立った気分。

 

新卒で東京にいたとき、埼玉グラードにいたときも、地元に帰るときは同じ気分であった。

東京駅の新幹線ホームで自由席に並んでいるときは幸せだった。

例え数十時間後には憂鬱の中に突き落とされることがわかっていてもである。

 

 

ふるさとのなまり懐かし停車場の

              人ごみの中にそを聴きにゆく

 

 

1910年に刊行された「一握の砂」に収録されている石川啄木の句である。

岩手県渋民村出身の啄木は、故郷から遠く離れた東京の地で、故郷のなまりが恋しくなると上野駅へ通い、東北本線を上ってきた列車を待った。

その乗客からなら故郷のなまりが聴けるのではないかと考えたのだろう。

 

 

「上野発の夜行列車降りたときから 青森駅は雪の中」という歌詞があるように、かつての上野駅は北へ向かう玄関口であった。

上野発青森行きだけで、急行「津軽」、急行「八甲田」、急行「十和田」、特急「はくつる」、特急「あけぼの」、特急「ゆうづる」の6種類あった。

はくつる」は2往復あったように思う。

秋田行きや盛岡行きを合わせればきりがない。

 

そんな中、急行「津軽」は「出稼ぎ列車」、「出世列車」と呼ばれた。

 

まだ新幹線もなく、飛行機が高額だった時代、庶民の移動手段と言えば長距離夜行急行であった。

今でこそ3連休もあれば帰省できるような時代になったが、当時は盆正月くらいしか帰れなかっただろう。

中には東京で大成するまで帰らないと決めた若者も少なくなかった。そのため、急行「津軽」は「出世列車」と呼ばれた。

 

12月30日の夜、上野駅を22時23分に出た列車は未明の福島駅から奥羽本線に入る。

山形、湯沢、大曲と進み、秋田に着いた時にはもう昼過ぎ。

終点の青森には16時近い到着である。

沿線の小さな駅にも細かく止まり、その街出身の出稼ぎ労働者たちを降ろしていったのだろう。

津軽」は1993年にその役目を終えた。

 

半世紀近くにわたり、出稼ぎ労働者たちの凱旋列車を務めた急行は、時代の流れとともに静かに眠りについたのだ。