人生どうでも飯田橋

日々感じたことを綴ります

瀬戸内の曽祖父

三原駅を定刻どおりに出発した列車は山陽本線本線と別れ、呉線に入って行く。

ほどなくして左側に瀬戸内の穏やかな海を望むことができた。陽光を浴びてきらめく海面は驚くほどきれいだった。

対岸の島々や入り江には造船所や鉄工所が林立し、かつてこの地域が重工業で栄えた故に空襲や艦砲射撃の標的となっていたことを思い出した。

 

私の曽祖父は生まれてしばらくしたあと、広島県呉市の小さな造船会社へ養子へ出された。

当時は大正末期、名古屋から急行で20時間かかった。

曽祖父はまだ私が幼稚園に入る前、よくこの話を得意げに私に聞かせた。

曽祖父は私と違い働き者であった。尋常小学校に入ると造船所の手伝いをするようになった。

造船所のドックは幼い曽祖父にとって、格好の遊び場であった。大きなタンカーから数トンクラスの小さな浚渫船まで、造船所に出入りする船は様々であった。

作業員の手元で光るオレンジ色の火花、リベットを留める耳をつんざく音、塗料の匂い。その全てが曽祖父にとって日常であった。

中等学校卒業が迫った昭和15年の暮れのある日、造船所に一人の新入社員がやってきた。

曽祖父はその姿を見て驚いた。16歳くらいの少女だったのだ。

当時は女性が働くことが珍しかった時代である。苦労してきたのだろう。その目はすべてを諦めきったように光もなく、吸い込まれるような暗さで、眉間の皺は刻み込まれたように深かった。

曽祖父は自分の名前を告げたが、その少女は穴の空いたような瞳で曽祖父を見つめるだけだった。

「無駄じゃ。こいつ、おしなんだとよ。だけん話しかけても答えれん」

横に立っていた作業員が答えた。

"おし"とは聾唖障害のことを指すらしい。

その日から曽祖父はその少女に仕事を教えることになった。今で言うOJTである。

名をゆう子といった。

日米開戦が迫っていた時代であった。船の受注は右肩上がりに増えていった。

ゆう子はとても働き者だった。ほとんど休憩もとらず、早朝から夜まで働いた。物覚えも早かった。

コミュニケーションはもっぱら筆談であった。

曽祖父から言わせれば「俺の教え方が良かった」とのことだが、実際のところはわからない。

やがてそれまでドック入りすることが多かった貨物船や浚渫船の代わりに、駆逐艦軽巡洋艦がドック入りすることが多くなった。

彼女の手は造船所で働くほかの男たちとは違い、小さな手をしていたので、駆逐艦や潜水艦の12.7ミリ砲の中を磨くのに適しており、重宝がられた。

最初のうちはゆう子が聾唖だから、女だからと馬鹿にしていたほかの従業員たちもその実力を認め、すっかり打ち解けるまでにいたった。少しだが笑うことも増えた。

しかし眉間の皺だけはどうしても取れなかった。

昭和20年3月の初め、曽祖父のもとにも赤紙が届いた。造船技師として徴兵を免除されてきたが、どうやらいよいよ状況は逼迫しているらしかった。

ゆう子は泣きじゃくりながら嗚咽をぶつけたが、どうにかなるものでもなかった。

曽祖父が発つのは3月19日だった。

 

飛行機の爆音の中で曽祖父は飛び起きた。

外へ出ると、探照灯に照らされた銀色のB29の姿が見えた。小さく見えるのは艦載機だろう。

ぼんやりとそれを見上げていると、すぐ横の家の庭に焼夷弾が突き刺さるのが見えた。

我に返った曽祖父は寝間着のままで造船所へ向かった。

ドックには海軍からの命を受けて建造中の重巡洋艦が停泊している。行って自分がどうにかなるものではないが、体が動いていた。

ドックはまだ無事だったが、火の手が上がるのは時間の問題だった。

ゆう子もドックの前に棒立ちになっていた。寄宿舎から飛び出してきたのだろう。

そのとき、停泊中の巡洋艦から轟音とともに火柱が上がった。

艦橋の右半分が吹き飛び、真っ黒い煙があがっていた。呆然としているゆう子の顔を火柱が照らしていて、曽祖父はそれにしばらく見とれていたらしい。

彼女は声にならない叫びをあげ、憎悪のこもった目でB29を睨み付けると、巡洋艦に向かって駆け出して行った。

曽祖父は慌ててそのあとを追おうとしたが、砲塔がものすごい音を立てて吹き飛んだ。弾薬庫に誘爆したのだろう。船首は変形し無残な姿になっていた。

曽祖父はこのとき体内に入ったガラスや金属の破片を死ぬまで取り出すことはしなかった。

ゆう子の姿が見えなかった。

足を引きずりながら巡洋艦に近づくと、鉄骨の下敷きになっている彼女がいた。

曽祖父は聞こえないのがわかっていても、名前を呼び続けた。

ゆう子はうっすらと目を開け、かすかに笑うと「ありがとう」と言った。確かにあのとき彼女がそう言った。私は何度も曽祖父がそう言うのを聞いた。

とても穏やかで幸せそうな顔をしていた。

「なにしとるんじゃ! すぐに離れろ!」

すっ飛んできた父親とほかの従業員に羽交い締めにされ、引き剥がされた。

直後、3回目の爆発が起き、巡洋艦は数分もたたないうちに鉄の塊に変わり果てた。

鉄骨の下敷きになっている遺体が発見されたのは翌朝のことだった。

 

曽祖父は身体中に破片を受ける重傷を負い、その後、終戦を迎えた。

 

呉線仁方駅の近くに小さな和菓子屋がある。

曽祖父とゆう子はそこのまんじゅうが好きだったらしい。

名前はうろ覚えだった。駅前タバコをふかしていた暇そうなタクシー運転手に連れて行ってもらった。

90近い店主は、私の話を黙って聞いていた。

帰り際「これ日持ちするから」と言って渡されたのは落雁だった。

「あの子らの墓に供えたって」

店主は涙を滲ませていた。私は礼を言って受け取ると、曽祖父が好きだったまんじゅうを熱いお茶で流し込んだ。