人生どうでも飯田橋

日々感じたことを綴ります

新卒で就活してたときの話①

人生の転機と言うが、その出来事が人生の転機であったのかどうかなど、死ぬ間際までわからない。

 

2010年当時、私は大学3年生であった。

東京の武蔵野で一人暮らしをしていた私は、人生の絶頂期を迎えようとしていた。

彼女さえいなかったが、友達もそこそこ多く、ゼミは私ともうひとりの友人以外は全員女子というハーレム状態が構築されていた。

 

旅行が好きだったので、旅行会社に就職できたらいいなと思っていた。

当時の就活解禁は3年生の6月。

2年生が終わった春休みにインターンに参加していたから、実質大学生活の半分を就活に供出しなければならないようなスケジュールが組まれていたことになる。

インターンは旅行会社に行った。法人営業ではなくカウンターセールスなので、ひたすら届いたパンフレットに判子を押すだけの作業が大半であった。

それ以外にやることがないので、社員の人が物凄い速さで押していくのに対し、私はワタモテのもこっちが文化祭の準備で紙を裁断しているかのごとく、ちんたら作業した。

 

3年次から福祉系のゼミに参加した。

精神保健福祉士という国家資格を目指すためのゼミである。

しかしこの資格の受験資格を得るためには、4年次の夏を全て費やし、病院での実習に参加しなければならない。

それはいい。問題はその実習に参加するかしないかを、3年の夏までに判断しなければならないことであった。

もし4年の初夏頃までに一般企業に内定が決まれば、その後は実習に参加できる。そして、一般企業で働きながら精神保健福祉士という資格があれば、辞めても食うには困らない。

資格は欲しいが精神保健福祉士として病院で働きたくない私からすれば、非常に魅力的な計画であった。

しかし、4年の初夏までに一般企業に内定をもらえなけば、精神保健福祉士になるしかない。

やはり鉄道会社か旅行会社で働きたかった。

旅行会社は給料が安いことがわかっていたので、鉄道会社で観光列車とかを企画する人になりたかった。

2年次で国内管理者の資格を取り、3年次で総合管理者の資格を取得する予定であった。

精神保健福祉士の試験は4年の春先なので、一般企業への就活を再開する時間など残されてはいない。

ちなみに、精神保健福祉士の就活はかなり遅く、かつ決まるのも簡単である。

したがって、もし一般企業への就活に絞り、結果、ブラック業界からしか内定をもらえなかった場合は死を意味する。

希望業界から内定をもらえることに賭けて精神保健福祉士をあきらめるか、精神保健福祉士になるか。

まさに究極の選択を迫られていた。

 

教授やキャリア課と面談し、一般企業に絞って就活することを決めた。

「今あなたは人生の岐路に立っている」と言われたが、そんなことは言われなくてもわかっていた。

こうして、私の就活戦争は始まった。

このときは、このあとに2回も就活戦争に巻き込まれることなど、知る由もなかった。

 

3年生の10月、初めて合同説明会に参加した。

六本木であった。会場には暗い色のスーツに身を包んだ学生たちの、長蛇の列ができていた。(図1)

 

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(図1 合同説明会に並ぶ就活生 2010年10月4日 六本木)

 

仲のいい友人二人と参加した。ゼミは違うが、1年生の頃からの付き合いの友人である。

友人Aは広告業界、マスコミを目指しており、Bはまだ特に業界は決めていなかった。

初めての合同説明会は2〜3社話を聞いて終わった。

その後は六本木でハンバーガーを食べて帰宅した。

こんな早くから動いているのだから、まず大丈夫だろうという何の根拠もない自信があった。

 

当時の就活の様子は2010年に書かれたこのSSを読んでもらえれば、大体の雰囲気がつかめると思う。

http://elephant.2chblog.jp/archives/51505209.html

 

11月には、初めてビッグサイトで開かれた合同説明会に参加した。

人気企業の説明会を聞くには事前に予約しなければならず、予約開始数秒で満席となった。

当日は友人Bと参加した。人混みが嫌いな私は、商船三井の説明だけ聞いてあと、友人とカレーを食って帰路についた。

 

12月になると、徐々に単独で会社説明会を開く企業も増えてくる。こちらも人気企業は一瞬で売り切れるため、開始時間にパソコンの前でスタンバイをしていなければならなかった。

今はどうか知らないが、当時は説明会に参加しないと受験資格すら得られない企業がほとんどであった。説明会と筆記試験や一次面接を兼ねている企業が多かったためである。

そして説明会で出てくるのが、就活名物首振り赤べこ学生である。私も一度だけ見たことがある。

満面の笑顔でひたらすら頷いており、狂気を感じた。

ベンチャー企業の中ではすでに選考を開始している会社もあった。

 

1月になると、面接が始まった。

初めて受けた面接は中小の旅行会社であった。

結果は落ちたが、別にどうということはなかった。

この頃から旅行会社だけ見ていてはまずいと思い、物流業界にも手を出し始めた。

航空会社やホテルから座席や部屋を仕入れ、ひとつの商品としてパッケージツアーを売る旅行会社と、航空会社や船会社からスペースを買い、それを自社の輸出入通関サービスや陸送サービスに組み入れ、ドアデリバリーを構築する物流会社。

形に見えないものを売るという点では同じであった。

 

2月にはてるみくらぶを受験した。

集団面接にもかかわらず、5分で終了した。

二時面接で落ちたが、ゴミのような会社だなと思った私の勘は外れてはいなかった。

3月も上旬になると、スケジュールも過密になってきた。

1日に2社以上の選考に参加することなど珍しくもなかった。ひたすらエントリーシートと履歴書を量産し、私は頭が悪いのでSPIの勉強をした。

2011年3月10日、名古屋の海運会社を受けるため、実家に帰った。

 

(続く)