人生どうでも飯田橋

日々感じたことを綴ります

新卒で就活してたときの話 ②

最初は、目眩かと思った。

毎日毎日面接に説明会に疲れきっていた。

目眩が起きてもおかしくはなかった。

やがて、目眩ではなく建物が大きく揺れているのに気づいた。

テレビをつけると、津波が電柱をなぎ倒していく映像が映し出された。

私はただそれを呆然と眺めていた。

 

東海道新幹線はすぐに復旧した。

東京のアパートに戻ると、ブレーカーが落ち、食器が散乱していた。

計画停電、電車の間引き運行、スーパーの物資不足で就活どころか日々の生活すらままならない状況に突き落とされ、2012年度の採用を取りやめる企業が続出した。

さらに悪いことに、ガンを患っていた父が亡くなった。

説明会の予定が入っており東京にいたため、父の死に目には会えなかった。

自分を殺して面接を受けて落とされて、一体何のためにこの作業を続けていかなければならないのだろう。

友人AもBも、まだ内定はなかった。

なぜ自分の年度に1000年に一度の災害が発生するのだろうか。

毎日そんなことばかり考えていた。

 

4年生に進級したが、内定はなかった。

当時は一般的に、4年の5月頃までには内定が出ていないとまずいと言われていた。

大手ホワイトの採用が終了する時期だからである。

2ちゃんの就活板では、"ロクガツオーテ" "アキサイヨー"などという言葉が目につくようになったが、そんなものは留学帰りのハイスペック学生のために設けられたもので、私のような無能には何の関係もないことであった。

数十社書類を出し、最終面接までこぎつけたのはわずかに5社。

ほとんどの企業が独自のエントリーシートと履歴書を要求してくるため、書類の作成に膨大な時間を費やした。

書類は全て手書きであることが暗黙の了解であった。

徹夜で書類を仕上げても、当日説明会の会場がわからず、5時間かけて仕上げた書類を駅のゴミ箱に突っ込んで帰宅したこともあった。

とうの昔に第一志望から第三志望までの企業はすべて落ち、ついに小売やパチンコにまで手を出すことを検討し始めた。

ほぼ毎週名古屋と東京を片道6時間かけてバスで移動しており、気が狂いそうだった。

 

6月のある日、私は説明会に参加するため、東京メトロ東西線に乗っていた。

外は湿気を含んだ不快な暑さで、ネクタイを締めてスーツを着ていると意識が朦朧としてきた。

茅場町に着く前、自動放送の後に珍しく車掌の肉声の放送が流れた。

 

「外は大変暑いですが、皆さまこの先もお気をつけてお出かけください」

 

なぜか涙ぐんでいた。

 

私はあることに気づいた。

今まで馬鹿正直に面接では自分のことを話していた。

しかし、それでは通らない。

嘘をつく後ろめたさ、経験を水増し捏造する罪悪感を捨てる。

持っていない資格を持っていると言うのは確かにまずい。だがTOEICの点数の水増しや活動していないサークルのエピソードの捏造など、取るに足らないことだ。

正直者が馬鹿を見る世界であるということに、やっと気づいたのだ。

私は自己PRを練り直した。

「晩年の父の世話をしつつ、サークルでの役割を果たし、更に資格試験にも合格するためにどのような工夫をしたか、なにが改善ポイントであったか」を面接で話し、父の死をも自らの面接のアピールに組み込んだ。

 

7月、やっと内定が出た。

大手物流会社の物流子会社というよくわからないポジションの会社である。

おそらく親会社が税金逃れに作った会社なのだろう。

約50社応募して、内定はたったの1社のみであった。

 

2012卒の就活は混迷を極めた。

今とは違う超買い手市場の中、トンボ鉛筆の佐藤のように、就活生を見下しつけあがる企業や人事も現れた。

 

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蜂起した就活生のパルチザンに捕えられ、炎天下の茅場町を徒歩で行軍させられる圧迫面接を行なった面接官。この後銃殺刑となった。(2011年 8月 茅場町)

 

 

私はあの地獄を絶対に忘れない。

私に圧迫面接をしてきた面接官の顔も、会社も、すべて鮮明に覚えている。

友人Aは就職留年、友人Bは専門学校へ進学する道を選んだ。

 

その後の大学生活は楽しいものであった。

友人たちと毎日遊び歩いた。

2012年3月、私は卒業した。