人生どうでも飯田橋

日々感じたことを綴ります

新卒で入った会社を辞めるまでの話

耳の奥で電話が鳴っていた。

それが夢なのか、現実なのか区別がつかない。

やがて意識がはっきりしてくると、自室の白い天井が目に入った。

瞬間、今日の業務のことを考えて憂鬱になる。

 

私が配属されたのは"輸出混載課"。

各営業所の営業が取ってきた貨物をこの部署で一つのシップメントとして仕立て上げ、混載差益を得ることが課せられた役割であった。

とにかく電話が多い。

平均すると30秒に1回はかかってくる。

課員6名が全員電話中のため、鳴りっぱなしになっていることもザラにあった。

あまりに電話が鬱陶しいので、入社数ヶ月後の面談のときに「電話がうざいのでバイトを入れてほしい」と言ったら、別室に呼び出されてブチギレられた。

意味がわからない。

電話が多すぎで自分の仕事ができないから意見を書いたのに、なぜブチ切れられなければならないのか。

この時から私は会社で自分の意見を言うのを辞めた。

 

私には同期が二人いた。

男と女ひとりずつである。

二人ともキチガイ激務部署の輸入通関課へ配属され、男のほうは深夜2時まで残業など当たり前だと言っていた。

私は希望していた部署への配属だったし、人間関係は悪くなかったので2人に比べればまだマシであった。

 

上司課長以下はとてもいい人たちだったが、部長(以下クソジジイ)がクズであった。

親会社出身ではなくプロパーであそこまでのし上がったのは賞賛に値するが、性格が終わっていた。

自分のことを神かなにかと勘違いしている人間であった。

基本的に女性社員を必要以上にチヤホヤし、男性社員をゴミのように扱うのである。

しかし女性をチヤホヤするだけで仕事量が減るわけではないから、女性から支持されているわけではない。

 

私が入社して2年が経とうとしていた頃、一つ上の先輩が別の支社へ異動を命じられた。

当然、補充が入るものだと思っていた。

しかし、入らなかった。

私は仕事量が2倍になった。始発で出社して終電で帰る日が続いた。

私の怒りは総務へ向いた。いつも暇そうにして完全週休2日謳歌している部署。説明会で「将来的にはすべての業務を経験してもらいます」と謳っていたが、総務の連中は私の部署へ異動するのか? 絶対しないだろ。何の利益も生み出していない奴らが、なぜのうのうとフロアを歩けるのだ。

当時の私はそう思っていた。

年に一度謝恩会というゴミのようなイベントがあるのだが、社長とのじゃんけん大会で棒立ちのまま鼻をほじってたら、総務の次長に「楽しそうな顔してないけど、楽しんでる?」と言われ、見てわからないのかと思った。

 

入社3年目を迎えた春、次長が交替した。

取引先が紛失した書類を「おまえが失くしたのだろう」とこいつに詰問され、私は退職を決意した。

次の仕事などもちろん決まっていなかった。「留学したい」と適当に理由をつけた。

退職面談では、次長に「逃げてるだけにしか思えない」と言われたことは、はっきりと覚えている。

なぜ逃げたらいけないのだろうか。

私に2人分の仕事を同じ給料でやらせておいて、どの口がそんなことを言えるのだろうか。

 

まともに昼飯が食えない日が半年ほど続いた。

大体昼休みは19時頃、遅いときは昼食が20時を回ることもあった。

最後の謝恩会は関西支社と合同の温泉旅行だった。

クソジジイに買い出しに行かされ、それを各部屋に配らされた。

総務の次長から「大変だね〜こんなところに来てまでw」とありがたい労いを頂戴した。

 

ネットで「過去に戻る方法」やら「上司を呪う方法」などと検索する日々が続いた。

後輩は私を真似て、クソジジイのことを「クソジジイ」と呼ぶように仕立て上げた。

可愛らしい顔をした女の子なのだが、「これってクソジジイのハンコもらったらどうすればいいですか?」「今日ってクソジジイは終日外出ですよね?」などと日常会話の中で使い始めたので笑った。

 

2015年5月、私は退職した。

あと2カ月待てばボーナスが出たが、もう我慢の限界であった。

 

しばらく働きたくなかったので、その半年後、私は海外へ逃亡した。