人生どうでも飯田橋

日々感じたことを綴ります

罰当たりな神頼み

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入社日が刻一刻と近づいている。

なので最近はもっぱら運動とエクセルの勉強に勤しんでいる。

ちょっと自慢させてほしいのだが、先日MOSパワーポイント2013は満点合格した。

 

普通の事務職なら当たり前に使いこなせるソフトが全く使えないので、恥ずかしい限りである。

もう前職のような過ちを繰り返したくはない。いつまでもつらい記憶をほじくり返して被害者意識に浸っている場合ではないのである。

できる範囲で武装して来るべきときに備えなければならない。

 

市民プールがすでに今年の営業を終了したので、最近は自転車で10キロほど離れた喫茶店まで行き、そこで勉強をしている。

これで勉強のついでに運動が一緒にできるというわけだ。

おまけに部活も勉強も両立! 恋もうまくいきました! やっててよかった進研ゼミ!

 

 

さて、今日は神頼みについて書きたいと思う。

 

「苦しいときの神頼み」ということわざがあるように、よほど敬虔な仏教徒でない限り、日常的にお経をあげたり寺社仏閣に参拝する人は少ないだろう。

しかし我々は神頼みをする。

うんこが漏れそうなとき。宝くじに当選したいとき。好きな人と付き合いたいとき。

 

別に悪いことではない。むしろ日本の八百万の神々の存在を意識できる、いい機会であると思う。

 

しかし私は、罰当たり(なのかどうかはわからないが)な神頼みをしてしまったことがある。しかも、今後一切このお願いをしないという自信がない。

 

2016年 10月下旬

 

秋も深くなり、朝晩は相当冷え込むようになった。

埼玉北部は霜が降りるほどの冷え込みだった。

当時私は徒歩で40分かけて通勤していた。健康的な運動であり、体重も順調に減っていったが、それは異常な減り方だった。

 

県道7号線は三国街道のバイパスにもなっており、大型トラックが多く行き交う。

10月も中旬を過ぎると、通勤途中で「あのトラック、ハンドル操作を間違って俺に突っ込んで来てくれないかな」とか、「信号無視したダンプカーが突っ込んできてくれないかな」と考えるようになった。

しかし意地でも「死にたい」とは思わないようにしていた。

苦労して入った会社なのだ。ここで死にたいと思うことは、多大な労力と犠牲を払って行った就職活動を自ら否定しているようなものだ。新卒で入った1社目より優れているに違いない。

 

当時は老人の運転する車による事故が多発していた時期で、何人か犠牲者が出た。

夜のニュースで交通事故で死亡した人が取り上げられると、「この人は今朝起きたとき、今日自分が死ぬことを予想しただろうか」と、そればかり思った。

そして本当に不謹慎だが、心からうらやましかった。

私には自殺する勇気もなかった。だから神頼みをした。

 

10月のある週末、碓氷峠鉄道文化村からの帰り、高崎をうろついていた。

私は御朱印集めをしており、目ぼしい神社か寺があれば御朱印をもらおうと御朱印帖を持ち歩いている。

調べてみると、高崎神社という神社を見つけたので行ってみた。

外観は正直特筆すべきことがない神社であった。

 

賽銭を上げて、悩みに悩んだ末にこのお願いをすることにした。

 

「交通事故で死ねますように」

 

住所と名前を頭の中で唱える。

やってしまったと思った。

神聖な場所で、不謹慎なお願いをしてしまった。

 

御朱印をもらった。

神職の人に「よくお参りくださいました」と言われた。まともに顔を見られなかった。

なんて罰当たりなことをしてしまったのだろう。

私は逃げるように神社を後にした。

 

半年後、2017年4月

 

本社からの帰り、私は激詰めさんを助手席に乗せ、高速を運転していた。

抗うつ薬エチゾラムからテトラミドに変えたばかりだった。

眠気で憂鬱さを殺しているだけではないかと思うような、物凄い眠気だった。

 

「おい! 勘弁してくれよ!」

 

激詰めさんの声に我に返ると、センターラインを大きくはみ出していた。

後続車が来ていたら死んでいただろう。

 

いつかあの神社へ謝りに行かなければならない。

ジブリ映画のモデルになった城の話

ジブリ映画が好きである。

「その顔で…」と思う人もいるかもしれないが、好きなのだから仕方ない。

 

ジブリ作品には数々の美しい舞台が描かれている。

ナウシカの風の谷、魔女の宅急便の街、もののけ姫の森、ラピュタ城……

実在するならば行ってみたいところばかりだ。

しかし所詮は架空の話。作り話である。実在などするはずもない。

 

しかし、実在はしなくともモデルになった場所は存在する。

諸説あるが、一般的には下記のような見解がある。

 

もののけ姫 : 屋久

魔女の宅急便 : ドゥブロヴニク(クロアチア)、ストックホルム(スウェーデン)、タスマニア島(オーストラリア)

ナウシカ : フンザ(パキスタン)

ラピュタ : アンコールワット、ベンメリア遺跡(カンボジア)、スピシュ城(スロバキア)

 

ほかの作品は知らん。

私は2年前、スピシュ城に行ったことがある。地球の歩き方でこの城の写真を見てから、どうしても行きたかったのだ。

 

 2015年7月

 

ハンガリーブダペストを出た列車は定刻より30分以上遅れて、スロバキア東部の街コシツェに到着した。

時刻は夜10時を回っていた。

 

治安が良くないと聞いていたので、ビビりながら早足で宿へ向かう。

 

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翌朝は快晴だった。

駅で切符を買い、列車に乗り込む。

この辺りはジプシーが多い。ジプシーとは、1000年以上前、遥か遠いインド北部から陸伝いにヨーロッパまでやってきた人々のことを言う。

彼らの肌は浅黒く、容易に見分けることができる。

沿線にも彼らのスラムを垣間見ることができた。

 

1時間ほど乗ったところにある、スピシュスカー・ノヴァ・ベス駅で下車。

さらにバスに乗り継がなくてはならない。

駅前のバスターミナルから、スピシュスケー・ポトフラディエという舌を噛みそうな名前の小さな街まで行く。その街にラピュタの城はある。

 

40分ほど乗っていると、丘の上に立つ巨大な廃墟が見えた。あれがそうなのだろう。

バスを降りると、とんでもない田舎だった。

 

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標識に従い、城への道を歩いて行く。城は街のどこからでも見ることができた。

 

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シータがムスカ大佐に囚われていた城だ。

 

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ロボットが発射した目からビームで街が大変なことになった。

 

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帰り道、スロバキア名物のハルシュキという料理を食べた。ヤギのチーズでニョッキを和えたものである。

美味であった。

 

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レストランのお姉さん。

 

ジブリの聖地めぐりは面白いので、また行きたいと思う。

混浴風呂で若い女性と遭遇する確率

温泉が好きである。

特に田舎にある鄙びた温泉がいい。

 

前の会社にいたときは埼玉の北部に住んでいた。

高崎までは電車で15分。

都心に出るよりも遥かに近い。

 

そして群馬は温泉大国である。

行かない理由がない。

わざわざ奥地の温泉まで行かなくても、高崎駅から10分ほど歩いたところに「さくらの湯」という公衆浴場がある。

ここはれっきとした天然温泉である。

内湯のみの小さい浴場だが、毎週土曜の夜、風呂上がりに座敷で飲むコーヒー牛乳の旨さったらない。

温泉に入っている時だけは、平日の嫌なことも忘れられる。

 

当時は冬だったので、木曜、金曜と風呂に入らず、土曜日に入るということをよくやっていた。

正直、アヘ顔になるほど気持ちいい。

おすすめなのでぜひやってみてほしい。

 

群馬は温泉文化が発達しているので、混浴も多い。

私もあわよくば若い女性の裸を見たいという理由で、いくつかの混浴温泉を訪問したものである。

男性諸士は気になることだろう。

混浴に行けば、本当に若い女性はいるのだろうか。

 

私はついぞ一度も遭遇しなかった。

マイナーな温泉ばかり行っていたというのもあるが、4ヶ所行って遭遇したのはおばちゃん(湯浴み着あり)一人であった。

 

年の瀬も迫った2016年の年末、私は上越線後閑駅に降り立った。

混浴露天風呂で有名な猿ヶ京温泉へ行くためである。

後閑駅はかつて特急や急行が停車していたが、いまは静かな田舎の駅である。

かの与謝野晶子も80年前、猿ヶ京温泉を訪れている。

 

駅前のバス乗り場で猿ヶ京行きのバスを待つ。

 

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バスは転車台で転回していた。

これはバスが乗ると勝手に動く仕組みなのだろうか。

 

ガラガラのバスで猿ヶ京へ向かう。

 

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この手のバスは土曜でも乗客が自分一人ということが多いので、心配になる。

 

沿線には月夜野(つきよの)という美しい地名があり、与謝野晶子もこの名を彼女の旅行記へ記している。

 

終点の猿ヶ京へは小一時間ほどで到着した。

 

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なんとも寂れた場所であるが、ここは高崎と新潟を 結ぶ三國街道に面しており、交通の要衝であった。

関越自動車道が完成するまで、ここは東京と新潟を結ぶ動脈だった。

 

バスターミナル前の食堂でカツ丼を食べた。

けっこう繁盛しているようだ。

 

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腹ごなしに付近をうろうろしてみる。

 

群馬から新潟南部にかけては、かつて養蚕が盛んであった。

そのためこの地域はかなり潤ったという。

その一翼を担ったのが、一昨年世界遺産に登録された富岡製糸場である。

上越線信越本線も、この地方で作られた生糸を新潟港や東京の港へ輸送するという重要な任務を負っていた。

 

この地域の古い家屋には、下の写真のような様式が多い。

 

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二階部分に庇があり、二階が一階より広く作られている。

これは二階でカイコを飼っていたからである。

二階が広いのは、床面積を広げてカイコを少しでも多く飼うため。

一説には家計を支えてくれているカイコに敬意を表するため、二階で飼ったというものもある。

 

腹ごなしもできたところで、温泉へ行くことにした。

猿ヶ京唯一の混浴がある、某ホテルへ日帰り入浴に来た。

ここは露天風呂が混浴なのだが、大小様々な湯船が並べられていて面白い。

内湯も湖に面しており、景観は申し分ない。

たぶん対岸の家から望遠鏡で覗けば、浴室を覗けると思われる。

しかしエロいJDと遭遇することなく、私は肩を落としてホテルを後にした。

 

 実はこの日、猿ヶ京温泉ではなく、ここから10キロほど離れたところにある湯宿(ゆじゅく)温泉というところに宿を取っていた。

バスまで時間があるので、行ってみたかった与謝野晶子記念文学館に行くことにした。

 

入館すると係員のおばちゃんが、与謝野晶子が猿ヶ京に訪れたときの記録をもとにしたドキュメンタリーを見せてくれた。

 

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与謝野晶子は2回、この地を訪れている。

一度目は夫、与謝野鉄幹と旅行し、二度目はその10年後、鉄幹の死後である。

晶子は旅行記の中で、鉄幹との思い出を述懐している。

 

バスで猿ヶ京を後にし、湯宿温泉へ向かう。

 

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湯宿は温泉街が300メートルほどの小さな温泉である。

宿の風呂に入ろうとして驚いた。

熱すぎる。

50度以上あるのではないだろうか。まともに入れたものではない。

一応埋める用のホースがあるが、源泉がこんこんと湧き出してくるため、追いつかない。

諦めて体にかけるだけにした。なんと悲しい。

 

湯宿は名前のとおり、相当な温泉好きでなければ入れないような温泉であった。

 

2016年12月24日

街頭募金に感じる罪悪感

皆さんは下記のような経験をしたことがないだろうか。

 

街を歩いていると(郊外の駅近くのことが多い)「募金をお願いします」と外国人から声をかけられ、なにか首から下げた身分証明書のようなものと、今まで募金した人が署名した手帳のようなものを見せられる。

 

気になって調べてみたら、たいていの場合彼らはフィリピン人であり、集まった寄付金は彼らの生活費に消えるらしい。

つまり詐欺である。

彼らのすべてが100%詐欺なのかは知らないが、そういう行為をはたらいている奴がいることは事実なようだ。

 

私が初めて遭遇したのは去年の暮れ、静岡の沼津駅であった。

 

確かにうさん臭くはあったが、身分証明書があるならいかがわしいものではないだろうと思い、少額ながら寄付した。

 

それを生活費にされるとは……(^ω^U)

あのフィリピン人の姉ちゃん可愛い顔して……

 

それ以降、私は駅前でフィリピン人に話しかけられても無視するようになった。

 

震災のあとも募金詐欺が横行していたらしい。

私が覚えているニュースだと、募金箱から取り出した金でジュースを買ったところを目撃されたおっさんが逮捕されたというのがあった。

 

募金というのは尊い行為であると同時に、募金している人の前を素通りすることに引け目を感じるのは私だけだろうか。

 

人から言われてやるものでもないのだが。

 

震災の直後、私は新卒で就活中だった。

2012卒だったは私たちは震災の影響が最初に直撃する世代であり、血眼になり就職先を探していた。

3年に上がる前の春休みにインターン、就活解禁が3年の10月。

当時は実に大学生活の半分近くを就活に費やするスケジュールが組まれていた。

さらには経団連の定めた開始時期を守らないクソ企業によって、さらに前倒しされるケースもあった。

そんな中、震災の影響で志望企業が2社3社と新卒採用を中止していく。

ただでさえ少ない持ち駒が削り取られていった。

 

駅前には大学生のウェーイ系集団が募金を呼びかける声が常に響いていた。

 

東日本大震災によって被災された方に、募金をお願いしまーす!」

「お願いしまーす!!!!」

 

その前を素通りするたびに私は自分に言い聞かせた。

「助けてほしいのはこっちのほうだ」と。

私だって何回かコンビニで余ったお釣りを募金箱に入れたりしたことはあった。

もうやるだけのことはやった。

 

しかし、私は目を疑う光景を目にした。

 

その日も私は就活で都心のどこかを歩いていた。

信号が赤だったので、歩道橋を使うことにした。

 

その日もどこからか「募金をお願いしまーす!」の声が響いていた。

 

私は歩道橋の上から階段を見下ろした。

吐き気がした。

そこには、歩道橋の階段の終点の脇に4〜5人ずつ大学生が立ち、声を張り上げていた。

全員が首から募金箱をぶら下げていた。

 

◯         ◯ <募金をお願いしまーす!

◯         ◯ <募金をお願いしまーす!

◯         ◯ <募金をお願いしまーす!

◯         ◯ <募金をお願いしまーす!

   |歩 |

   |道 |

   |橋 |

 

 

私は無表情で、募金集団の花道を通り抜けた。

 

きっと彼らは、どうすれば募金を多く集められるかを議論したに違いない。

そして歩道橋の脇に陣取り、花道を作るという結論に至った。

彼らを非難するつもりは毛頭ない。

しかし彼らを見て回れ右していく人もいた。

 

募金は罪悪感を拭うためにするものでも、人から強制されてやるものでもない。

 

おやすみプンプン」の南条さんは言った。

 

「募金箱の前を素通りするだけで悪人のような気分にさせられるお前らが正常だとでも? どっちがおかしいのかよく考えろ」

 

それにしても沼津にいたフィリピン人の姉ちゃんはかわいかった……(^ω^U)

 

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幻の路地裏

子どものころ、誰しも野山を駆け回った経験があるに違いない。

最近の子どもは知らんけど。

 

私も今でこそこのような体たらくではあるが、小学生のころは近所の山や神社を走り回り、自転車を一日中漕ぎ、友人の家でテレビゲームに興じるような子どもであった。

 

子どもとは不思議な力を持つもので、大人には見えないものが見えたり、不思議な体験をしたりするものである。

 

例えば遊んでいるうちに見たこともないような場所へたどり着き、別の日にそこへ行こうとしてもまったくたどり着くことができなかったことはないだろうか。

私はない。

 

ある夏の日に自分にだけ子どもが見えていたこともないし、友達と遊んでいるうちに異次元空間へ入り込んだことも残念ながらない。

だからそういう不思議な体験をしたことのある人が羨ましくもある。

 

しかしひとつだけ、印象に残っている出来事がある。

 

2006年の1月だったと思う。当時私は高校1年生であった。

その日は友人と自転車に乗っていた。

どこかの目的地へ向けて走っていると、細い路地に入った。

あたりは夕闇に包まれており、◯の中にアルファベットの「L」とだけ書かれた看板にも明かりが灯っていた。

路地は車が通れないほど狭かった。

すれ違った老夫婦が、「たいぶ日が伸びたなぁ」と話していた。

路地はすぐに終わり、見知った道へ出た。

 

もうこの路地の場所は思い出せない。

友人に聞いても当然覚えてはいなかった。

果たしてあの路地は実在したのだろうか。

 

もうひとつ、似たような経験をしたことがある。

 

 

2010年4月下旬のある日。

この年の東京はとても寒く、4月の終わりに雪が降った。

私は友人と吉祥寺の井の頭公園で待ち合わせ、ひたすら自転車で南下してみようと試みたのだ。

 

仙川で京王線の線路を越え、私たちは小田急新百合ヶ丘に差しかかろうとしていた。

友人が、大通りを走るだけでは面白くないので、路地にそれようと提案した。

適当な路地に入り、南と思われる方向へ自転車を漕ぐ。

当時スマホなど普及しておらず、私たちは二人ともガラケーであった。地図もまったく見ていない。

 

しばらく住宅街の中を走っていると、景色が開けた。

私たちが立っていたのは丘陵地の上に造成された住宅街で、そこから新百合ヶ丘の街が見渡せた。

特に心が洗われるような絶景があったわけではない。

しかし、夕日を受けてきらめく家々は美しかった。

 

私たちは小田急の線路を越え、野川沿いに走り、溝の口付近まで達した。

駒澤大学の運動場の脇、砧本村のバス折り返し場近くの河川敷である。

私たちはしばらく多摩川を眺めていた。

 

調布の中華料理屋で夕飯を食い、吉祥寺に戻ってきたころにはすっかり夜も更けていた。

 

その後もこの友人とは自転車でうろうろすることが多かった。

 

2年後、2012年3月下旬

 

大学の卒業式を終え、私は引越しの準備をしていたとき、例の友人から連絡が入った。

多摩川への誘いだった。

 

私たちは武蔵境で合流し、南へ向かった。

仙川を越え、新百合ヶ丘の近くまできた。

私はふと丘の上から見た新百合ヶ丘の街並みを思い出し、友人に話した。

友人もその景色のことを覚えていた。

 

しかし適当なところを曲がった路地なのだ。

そう簡単に見つかるわけがない。

私たちはそれでもダメもとで路地へ折れた。

しばらく走ると視界が開けた。

あの路地だった。

こんなにあっさりたどり着けるとは思わなかった。

大学生最後の月にふさわしい出来事だと思った。

 

私は場所を確認しなかった。

もう二度とここへたどり着くことはできないだろうが、この路地は今も確実に存在しているのだろう。

 

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多摩川 溝の口

2013年 10月 再訪時に撮影

「懐かしい」と感じるとき

石油ストーブの匂いが好きだ。

ついでに言うと、気動車(ディーゼル列車)の排気ガスの匂いも好きである。

小学生のときは冬に石油ストーブを毎日つけており、それを囲むようにして授業を受けていた。

石油ストーブの匂いは、それを思い出して懐かしい気分になるから好きだ。

 

小学生のころ、正月だけは、ディーゼル特急「ひだ」に乗って父の実家へ帰省していた。

気動車排気ガスの匂いは、それを思い出して懐かしい気分になるから好きだ。

 

日々生活していて、「懐かしい」と感じる瞬間は多々ある。

 

過去の旅行の写真を見たとき、数年前に流行した曲を聴いたとき、久しく会っていない友人と再会したとき。

 

私はほとんど毎日、楽しかった大学時代のことを思い出しては「懐かしい懐かしい」と生産性のないことをしている。

 

大学時代、心理学の教授は言った。

 

「懐かしさは五感で感じる」

 

逆に言えば五感以外のなにで感じるのだという当たり前の話ではあるが、私は妙に納得したことを覚えている。

 

過去の写真を見て懐かしいと感じる→視覚

過去の音楽を聴いて懐かしいと感じる→聴覚

おふくろの味で懐かしいと感じる→味覚

数年ぶりにおっぱいを揉んだので懐かしいと感じる→触覚

プールの塩素の匂いを懐かしいと感じる→嗅覚

 

やはり情報化社会の昨今、視覚や聴覚で懐かしさを感じる機会が多いのではないか。

私はというと、人生でいちばん楽しかった時期(2008〜2011年)のニュースを見るだけで懐かしいと感じる、非常に不謹慎な性格にひん曲がってしまった。

これも視覚と聴覚による懐かしさの知覚と言えるだろう。

 

しかし嗅覚で感じる懐かしさは、視覚や聴覚よりも強かった。

 

 

2016年 11月26日 (土)

 

しなの鉄道上田駅からローカル線に乗り換え、長野県の別所温泉へ向かっていた。

別所温泉は信州の鎌倉と称され、歴史ある寺社仏閣がいくつか点在しており、小さな温泉街を形成している。

 

私がここを訪れるのは、2003年の6月以来、13年ぶりのことである。

死んだ父が家族旅行に連れてきてくれた場所であったので、懐かしかった。

 

駅から温泉街まで、ゆるやかな坂を上っていく。

入り口に立つと、小さな温泉街が一望できた。

同時に、おぼろげだった記憶が修復されていく。

 

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 川はこんなに小さかっただろうか。

道幅はこんなに狭かっただろうか。

そのとき、硫黄の匂いが鼻についた。

どうやら温泉が直接川に流れ込んでいるようだ。

 

その硫黄の匂いを皮切りに、私の記憶は次々と蘇った。

泊まった旅館の名前、内装、浴室、立ち寄った寺の池に浮いていた蓮。

たかが硫黄の匂いごときで、ここまで懐かしい記憶がよみがえるとは思わなかった。

 

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寺へ続く参道を歩いた。

記憶が面白いようによみがえる。

 

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腹が減ったので適当な飯屋に入る。

 

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ここで石油ストーブの登場。

久しぶりの畳。

 

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お寺の入場券売り場のおばちゃんと少し話した。

13年ぶりに来たと言うと、「こんな小さい温泉のことを覚えとってくれてありがとね」と。

 

世間的に見れば小さい無名な温泉かも知れない。

しかし私にとっては忘れえぬ場所である。

 

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帰り際、小さな公衆浴場に浸かった。

なかなか治らない口唇ヘルペスを、湯で浸した手ぬぐいでなぞった。

築50年は下らない浴場のタイルを、長いこと眺めていた。

 

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2016年 11月26日 別所温泉

新しい手帳を買った話と、行きつけだった定食屋の話

昨日、手帳を買いに行った。

 

よくわからないけど、バーチカルとかいうのがいいらしい。

3,000円くらいのそこそこ値がはるものを買った。

 

恥ずかしながら、いままで仕事で手帳を使う機会があまりなかった。

新卒で入った会社は内勤だったので、卓上カレンダーで事足りた。

7ヶ月で辞めた2社目は自分がやるべきことを詳細に文章に起こして把握しなければ理解できなかったので、卓上カレンダーとメモ帳を併用していた。

ちなみに当時の上司(以下激詰めさんと呼ぶ)によると、健常な人は概要だけTODOリストに記しておけばやるべきことを把握できるらしい。

 

毎朝の詰め会で激詰めさんから、私のその日の仕事に対する指示をいただく。

私はそれをひと言も聞き漏らすまいとメモをとり、「なぜそこまで書かないと理解できないのか」と詰められるのが毎朝の日課だった。

金正恩の横で必死にメモを取る高官たちを想像してもらえばわかりやすいだろう。

 

だから、正直手帳にはあまりいい思い出がない。

就活していた大学生のときのほうが、活用できていたように思う。

たかが手帳ごときに、どうも身構えてしまう。

 

 

今日はもうひとつ、前の会社に勤務していたときによく行った、定食屋の話をしたいと思う。

 

入社して3ヶ月もするころには、毎朝激しい嘔吐に襲われ、朝食などとれる状態ではなかった。

昼食はゼリー飲料かカロリーメイト

それでも空腹感を感じることはほとんどなかった。

 

しかし不思議なもので、仕事が終わると急に食欲が湧いてくる。

無能でも腹は減るのだ。

 

その定食屋を見つけたのは、日曜の夜に回転寿司かラーメンを食べに行った帰りだったと思う。

そのときは「雰囲気のいい飯屋だな」と思い、そのまま帰宅した。

 

そして数日後の水曜の夜、ふと思い立ってその定食屋へ行ってみた。

看板に電気が灯っていた。営業しているようだ。

こういう個人営業のお店はえてして入りづらいものだが、そのときの私はなんのためらいもなく引き戸に手をかけた。

 

しまった、高そうだ…。

 

店内は座敷が数卓とカウンターが6席くらい。

客は一人もおらず、閑散としている。

私がカウンターに掛けると、のれんの奥から60代半ばくらいのご主人が「いらっしゃいませ」と顔を覗かせた。

 

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お品書きを見ると高いものもあるが、1,000円前後の定食もあった。

私はロースカツ定食を選んだ。

ご主人が石油ストーブを運んできて、つけてくれた。

 

数分後、注文の品が出てきた。

ご主人は「ごはんおかわりしたかったら言ってね」と言い、厨房へ戻っていった。

 

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誇張ではなく、ごはんは涙が出るほどうまかった。

朝から固形物を食べていなかった体に、吸収されていく。

気づくと私は「うまいうまい」と言いながら、涙を流して食べていた。

 

翌日もこの店を訪れた。

 

今度はカキフライ定食を頼んだ。

 

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ご主人も暇だったのか、私の話に乗ってくれた。

彼は温泉が好きで、どこそこはきれいだとか、どこそこはなにがおいしいだとかの話で盛り上がった。

私は彼の故郷の沼田の話が好きだった。

 

私も鉄オタの地理オタなので、彼と話すのが楽しかった。

悪意と攻撃性のない人と話したのは久しぶりだった。

「お客さん、若いのに詳しいね。たいしたもんだなぁ」と言われ、会社では一挙手一投足を否定され続けていたため、とても面映ゆかった。

 

それから私はこの定食屋に足繁く通い、ご主人と温泉談義や行ってみたい場所について話した。

ここを見つけていなければ、私はもっと早くつぶれていただろう。

 

メインのおかずがなくても、味噌汁と煮物だけでごはんがいける。

私は赤だし派だが、ここの白味噌の味噌汁はいままで飲んだ中でいちばんだった。

ご主人もメインのおかず以外はおかわりをさせてくれるようになった。

 

私たちは住所を交換して「絵葉書でも出します」と言ったが、結局まだ出さないままだ。

書いているうちに、残暑見舞いでも出してみようかという気になった。

 

あとにも先にも、あんなにうまいロースカツ定食に出会うことはないだろう。