人生どうでも飯田橋

日々感じたことを綴ります

体調不良で会社休みまくって干された話

また体調不良で休んでしまった。

発熱中の3日間のうち、1日は不幸中の幸いで有給中だったので、病欠日数は2日にとどめられた。

 

しかし、昨年9月末に入社してすでに6日も病欠で休んでいる。

 

12月 胃腸風邪 1日

2月   高熱  3日

7月   高熱  2日

 

これ以上は本当にやばい。

もうすでに「自己管理できないチンカス野郎」というレッテルは貼られているだろうが、明日からどう振る舞えばいいのかわからない。

金曜出社後「ご迷惑をおかけしてすみませんでした」と頭を下げたが、冷たい視線が向けられただけだった。

 

ひとまず秋頃まで当面の有給取得見合わせを行う。

今回医者からもらった抗生物質を温存し、次回発熱時はロキソニンで微熱まで下げた後出社することを肝に命じた。

 

そもそも、なぜこんなに体が弱くなったのだろう。

学生のときは風邪をひいてもせいぜい微熱までで、鼻水や喉の痛みはあったが、1週間もすれば治った。

しかし最近だとまず熱が39℃台まで上がり、鼻づまりは全くない。

外から見たときの症状が発熱だけなので、周りから気づかれにくい。

糞みたいな症状である。

 

仕事も毎日毎日トラブルばかりで正直気疲れしてしまった。

業務上携帯電話を持たされるのだが、この前の発熱時も夜の11時すぎにかかってきた。

幸い簡単な問い合わせだったが。

私が出勤の日や誰もいない日曜などにかかってくるのはわかるが、休みの日の夜中(平日)にかかってくるのは正直納得がいかない。

そもそも休みの日は資料が手元にないから質問されたところでなにもわからない。

こういうポジションだと言われればそれまでだが、これが数十年続くのかと思うと気が重い。

瀬戸内の曽祖父

三原駅を定刻どおりに出発した列車は山陽本線本線と別れ、呉線に入って行く。

ほどなくして左側に瀬戸内の穏やかな海を望むことができた。陽光を浴びてきらめく海面は驚くほどきれいだった。

対岸の島々や入り江には造船所や鉄工所が林立し、かつてこの地域が重工業で栄えた故に空襲や艦砲射撃の標的となっていたことを思い出した。

 

私の曽祖父は生まれてしばらくしたあと、広島県呉市の小さな造船会社へ養子へ出された。

当時は大正末期、名古屋から急行で20時間かかった。

曽祖父はまだ私が幼稚園に入る前、よくこの話を得意げに私に聞かせた。

曽祖父は私と違い働き者であった。尋常小学校に入ると造船所の手伝いをするようになった。

造船所のドックは幼い曽祖父にとって、格好の遊び場であった。大きなタンカーから数トンクラスの小さな浚渫船まで、造船所に出入りする船は様々であった。

作業員の手元で光るオレンジ色の火花、リベットを留める耳をつんざく音、塗料の匂い。その全てが曽祖父にとって日常であった。

中等学校卒業が迫った昭和15年の暮れのある日、造船所に一人の新入社員がやってきた。

曽祖父はその姿を見て驚いた。16歳くらいの少女だったのだ。

当時は女性が働くことが珍しかった時代である。苦労してきたのだろう。その目はすべてを諦めきったように光もなく、吸い込まれるような暗さで、眉間の皺は刻み込まれたように深かった。

曽祖父は自分の名前を告げたが、その少女は穴の空いたような瞳で曽祖父を見つめるだけだった。

「無駄じゃ。こいつ、おしなんだとよ。だけん話しかけても答えれん」

横に立っていた作業員が答えた。

"おし"とは聾唖障害のことを指すらしい。

その日から曽祖父はその少女に仕事を教えることになった。今で言うOJTである。

名をゆう子といった。

日米開戦が迫っていた時代であった。船の受注は右肩上がりに増えていった。

ゆう子はとても働き者だった。ほとんど休憩もとらず、早朝から夜まで働いた。物覚えも早かった。

コミュニケーションはもっぱら筆談であった。

曽祖父から言わせれば「俺の教え方が良かった」とのことだが、実際のところはわからない。

やがてそれまでドック入りすることが多かった貨物船や浚渫船の代わりに、駆逐艦軽巡洋艦がドック入りすることが多くなった。

彼女の手は造船所で働くほかの男たちとは違い、小さな手をしていたので、駆逐艦や潜水艦の12.7ミリ砲の中を磨くのに適しており、重宝がられた。

最初のうちはゆう子が聾唖だから、女だからと馬鹿にしていたほかの従業員たちもその実力を認め、すっかり打ち解けるまでにいたった。少しだが笑うことも増えた。

しかし眉間の皺だけはどうしても取れなかった。

昭和20年3月の初め、曽祖父のもとにも赤紙が届いた。造船技師として徴兵を免除されてきたが、どうやらいよいよ状況は逼迫しているらしかった。

ゆう子は泣きじゃくりながら嗚咽をぶつけたが、どうにかなるものでもなかった。

曽祖父が発つのは3月19日だった。

 

飛行機の爆音の中で曽祖父は飛び起きた。

外へ出ると、探照灯に照らされた銀色のB29の姿が見えた。小さく見えるのは艦載機だろう。

ぼんやりとそれを見上げていると、すぐ横の家の庭に焼夷弾が突き刺さるのが見えた。

我に返った曽祖父は寝間着のままで造船所へ向かった。

ドックには海軍からの命を受けて建造中の重巡洋艦が停泊している。行って自分がどうにかなるものではないが、体が動いていた。

ドックはまだ無事だったが、火の手が上がるのは時間の問題だった。

ゆう子もドックの前に棒立ちになっていた。寄宿舎から飛び出してきたのだろう。

そのとき、停泊中の巡洋艦から轟音とともに火柱が上がった。

艦橋の右半分が吹き飛び、真っ黒い煙があがっていた。呆然としているゆう子の顔を火柱が照らしていて、曽祖父はそれにしばらく見とれていたらしい。

彼女は声にならない叫びをあげ、憎悪のこもった目でB29を睨み付けると、巡洋艦に向かって駆け出して行った。

曽祖父は慌ててそのあとを追おうとしたが、砲塔がものすごい音を立てて吹き飛んだ。弾薬庫に誘爆したのだろう。船首は変形し無残な姿になっていた。

曽祖父はこのとき体内に入ったガラスや金属の破片を死ぬまで取り出すことはしなかった。

ゆう子の姿が見えなかった。

足を引きずりながら巡洋艦に近づくと、鉄骨の下敷きになっている彼女がいた。

曽祖父は聞こえないのがわかっていても、名前を呼び続けた。

ゆう子はうっすらと目を開け、かすかに笑うと「ありがとう」と言った。確かにあのとき彼女がそう言った。私は何度も曽祖父がそう言うのを聞いた。

とても穏やかで幸せそうな顔をしていた。

「なにしとるんじゃ! すぐに離れろ!」

すっ飛んできた父親とほかの従業員に羽交い締めにされ、引き剥がされた。

直後、3回目の爆発が起き、巡洋艦は数分もたたないうちに鉄の塊に変わり果てた。

鉄骨の下敷きになっている遺体が発見されたのは翌朝のことだった。

 

曽祖父は身体中に破片を受ける重傷を負い、その後、終戦を迎えた。

 

呉線仁方駅の近くに小さな和菓子屋がある。

曽祖父とゆう子はそこのまんじゅうが好きだったらしい。

名前はうろ覚えだった。駅前タバコをふかしていた暇そうなタクシー運転手に連れて行ってもらった。

90近い店主は、私の話を黙って聞いていた。

帰り際「これ日持ちするから」と言って渡されたのは落雁だった。

「あの子らの墓に供えたって」

店主は涙を滲ませていた。私は礼を言って受け取ると、曽祖父が好きだったまんじゅうを熱いお茶で流し込んだ。

人間だけが耐えるのだ

この前TLを眺めていたとき、あるツイートが印象に残った。

 

憂鬱な気分のときに無理して気分を上げようとしても無駄。

憂鬱なときは暗い音楽を聴いたり暗い番組を見たりして、完全に気分を最下層まで落とす。

あとは上がるしかなくなる。

 

おぼろげだが、確かそんなような内容だったと思う。

私と同じ考えの人がやはりいるのだ。

就活で何十社受けても内定をもらえなかったとき、仕事で自分の案件にだけイレギュラーが多発したとき、取引先に書類を失くされたのに上司に自分のせいにされたとき。

いつも帰り道にこの曲を聴いていた。

 

加古隆の「パリは燃えているか

 

NHKのドキュメンタリー「映像の世紀」に使われる曲である。歌詞はなく、とても暗い。

悪い言い方をすれば、ものすごく陰気くさい。

何か嫌なことがあったあとにこの曲を聴くと、本当に気分が最下層まで落ちていくのをひしひしと感じる。

 

発売後に自殺者が多発したというハンガリーの「暗い日曜日」という曲があるが、音楽というものは酸いも甘いも人間をコントロールし得る存在なのかもしれない。

 

私は小学生の頃からこの「映像の世紀」が大好きであった。

特に第二次世界大戦を描いた第5集「世界は地獄を見た」はもう何度見たかわからない。

 

当時のモノクロ映像に、その時代を生きた人々の手記や述懐がナレーションとしてかぶせられる。

まるで自分がその時代を追体験しているような気分になる。

 

その中で頭からこびりついて離れないナレーションがある。

 

"スターリングラードはもはや街ではない。日中は火と煙がもうもうと立ち込め、一寸先も見えない。炎に照らし出された巨大な炉のようだ。それは焼けつくように熱く、殺伐として耐えられないので、犬でさえヴォルガ川に飛び込み、必死に泳いで対岸に辿り着こうとした。動物はこの地獄から逃げ出す。どんなに硬い意志でも、いつまでも我慢していられない。人間だけが耐えるのだ。神よ、なぜ我らを見捨てたもうたのか"

 

世界史を習った人ならスターリングラードという街の名を聞いたことがあるだろうか。

南ロシアのヴォルガ河畔に位置する街である。

1942年夏から1943年の初めまで、この街で史上最大の市街戦が行われた。

グラードはロシア語で「街」を意味し、文字どおりこの街は「スターリンの街」という意味であった。

ヒトラーは重工業の要衝であったこの街を陥落させ、一気にモスクワに攻め込み、ロシアをねじ伏せるつもりであった。

 

これはソ連兵の回想であるが、ソ連兵は逃げれば味方に射殺され、突撃すれば敵に殺されるかの二択を迫られていた。

 

次元は違えど、「人間だけが耐えるのだ」という悲痛なソ連兵の叫びは、私の中で生涯消えることはなく、苦しい局面に立たされたときに思い出すのだろう。

故郷へ帰る列車

地元から遠く離れた地で一人暮らしを経験した人にはわかっていただけるだろうか。

長期休暇で地元に帰るときの浮き足立った気分。

 

新卒で東京にいたとき、埼玉グラードにいたときも、地元に帰るときは同じ気分であった。

東京駅の新幹線ホームで自由席に並んでいるときは幸せだった。

例え数十時間後には憂鬱の中に突き落とされることがわかっていてもである。

 

 

ふるさとのなまり懐かし停車場の

              人ごみの中にそを聴きにゆく

 

 

1910年に刊行された「一握の砂」に収録されている石川啄木の句である。

岩手県渋民村出身の啄木は、故郷から遠く離れた東京の地で、故郷のなまりが恋しくなると上野駅へ通い、東北本線を上ってきた列車を待った。

その乗客からなら故郷のなまりが聴けるのではないかと考えたのだろう。

 

 

「上野発の夜行列車降りたときから 青森駅は雪の中」という歌詞があるように、かつての上野駅は北へ向かう玄関口であった。

上野発青森行きだけで、急行「津軽」、急行「八甲田」、急行「十和田」、特急「はくつる」、特急「あけぼの」、特急「ゆうづる」の6種類あった。

はくつる」は2往復あったように思う。

秋田行きや盛岡行きを合わせればきりがない。

 

そんな中、急行「津軽」は「出稼ぎ列車」、「出世列車」と呼ばれた。

 

まだ新幹線もなく、飛行機が高額だった時代、庶民の移動手段と言えば長距離夜行急行であった。

今でこそ3連休もあれば帰省できるような時代になったが、当時は盆正月くらいしか帰れなかっただろう。

中には東京で大成するまで帰らないと決めた若者も少なくなかった。そのため、急行「津軽」は「出世列車」と呼ばれた。

 

12月30日の夜、上野駅を22時23分に出た列車は未明の福島駅から奥羽本線に入る。

山形、湯沢、大曲と進み、秋田に着いた時にはもう昼過ぎ。

終点の青森には16時近い到着である。

沿線の小さな駅にも細かく止まり、その街出身の出稼ぎ労働者たちを降ろしていったのだろう。

津軽」は1993年にその役目を終えた。

 

半世紀近くにわたり、出稼ぎ労働者たちの凱旋列車を務めた急行は、時代の流れとともに静かに眠りについたのだ。

こんぴらうどん紀行

うどんが好きである。

 

やわいうどんではなく、コシのある固い麺のほうか好きだ。

わが故郷の伊勢うどんはやわらかすきであまり好きではない。

 

埼玉グラードにいたときは、会社帰りによく丸亀製麺に立ち寄ったものだ。

丸亀製麺は天ぷらもうまい。

おろしすだち冷うどんの並とごはん、半熟卵の天ぷらを注文し、ごはんには天かすとネギをこれでもかと盛り付け、天だれをたっぷりと回しかける。

もうしばらく食べていない。

 

今年のGW、友人と香川県へ行った。

高松に滞在はしなかったが、丸亀に泊まった。

朝食はもちろんうどんである。

 

 f:id:onsen56:20171215224632j:image

 

めっちゃくちゃうまい。

丸亀製麺もうまいが、それとは比べものにならないうまさである。

大盛りをぺろりと平らげた。

 

同日の昼もこんぴらさんの近くでうどんを食べた。

 

f:id:onsen56:20171215224937j:image

 

うますぎてはしごした。

このうどんを食べるためだけに香川へ行ってもいいと思う。

 

一応こんぴらさんの写真も載せとく。

 

f:id:onsen56:20171215225208j:image

 

近いうちに必ず再訪したい。

 

婚活パーティーに行ってきた話

入社してもうすぐ1ヶ月になる。

今のところなんとかやれているが、少しずつ覚えることが増えている。

半年あればひととおりできるようになると言われたが、もう6分の1が過ぎようとしているのにまるで成長が感じられない。

いつか激詰めさんのように豹変するのだろうか。とても怖い。

 

昨日は婚活パーティーに行ってきた。

ひとまず無職ではなくなったので、彼女ほちい(´༎ຶོρ༎ຶོ`)という思いから予約したのだ。

男は4,000円、女は無料というえげつない料金設定。

私が参加したパーティーが男性年齢28〜42歳だったので、私が最年少であったらしい。

コミュ障ブサイクハゲなのであえてフリータイムがないパーティーを選んだ。

この顔面ではフリータイムで孤立は必至である。

女性は30代がメインで、意外にもふてぶてしい態度の女は居なかった。

男がピンサロの回転のように席を移動しなくてはなからなかったので、少し疲れる。

しかし「時間短いですよね〜!」という会話の切り口ができたのでラクだった。

女性は20代が4人ぐらいしかいなかったので、適当に若い子の年齢を書いたら偶然マッチング。

私を含めて3組のカップルが成立していた。

20代のめっちゃ可愛い女医が参加しており、びびった。あの人と釣り合うには年収1,000万はないと厳しいだろう。

 

終了後はマッチングした26歳の子とLINE交換して飯食って解散。

そして昨夜からLINEが返ってこない(^ω^U)

 

結果

・LINE ID交換 2名

・マッチング1名

・メッセージカード 2名

 

初めてにしてはまあまあなのだろうか。

しかし男性年齢層がもっと若ければ私に勝ち目はないだろう。

思ったより楽しかったし嫌な思いもしなかったので、また参加したい。

 

f:id:onsen56:20171022115041p:image

一週間乗り切った話

新しい会社に入社し、なんとか一週間乗り切った。

だがこれも四千数百分の一に過ぎないし、これから先のことを考えると不安で仕方ない。しかしもうやり切るしかない。

 

東京支社のOJTの人が4日間教えてくれたのだが、経験済みの業界だけあって、前職よりは早く覚えられているような気がした。

前職では入社3日目と5日目に早速でかいミスをしたので、今週は本当に気を張り詰めていた。今週しているミスが来週発覚しないとも限らないので、引き続き気を張っていかなければならない。

 

昨日は名古屋の無印と東急ハンズへ行って、デスク整理用の小さい棚とか作成したマニュアルを入れる用のクリアファイル、それと名刺入れを買ってきた。

自分でミスしないやり方を工夫して、自分の身は自分で守らないと駄目だ。前職ではそれが全くできていなかったし、休みの日は仕事のことを1秒たりとも考えるのが嫌だった。

今まで内勤しかやったことがなかったので、名刺入れを持ったことがない。さすがにあったほうがいいと思ったので、安いやつをひとつ買った。

 

なんかもうネタがないな。

今週末は3連休なので、予定が合えば東京の友人たちに会いに行こうと思う。

それを楽しみに今週はミスなく乗り切りたい。

 

 f:id:onsen56:20171001113101j:image